横光利一

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)雌《めす》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)三、四|間《けん》後を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)浅くいけ[#「いけ」に傍点]た。
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     一

 初秋の夜で、雌《めす》のスイトが縁側《えんがわ》の敷居《しきい》の溝の中でゆるく触角を動かしていた。針仕事をしている母の前で長火鉢《ながひばち》にもたれている子は頭をだんだんと垂れた。鉄壜《てつびん》の手に触れかかると半分眼を開けて急いで頭を上げた。
 「もうお寝。」
 母は縫目《ぬいめ》をくけながら子を見てそういった。子は黙って眼を大きく開けると再び鉄壜の蓋《ふた》の取手《とって》を指で廻し始めた。母はまたいった。
 「明日また遅れると先生に叱られるえ。」
 子はやはり黙っていた。そして長らくして、
 「眠《ねむ》たいわア。」といった。
 「そうやでお眠《ねむり》っていうのやないの。」
 「いやや。」
 「お可《か》しい子やな、早《は》ようお眠んかいな。」
 子は立上って母の肩の上へ負われるようにのしかかると、暫《しばら》く静《しずか》にしていたが、その中《うち》に両足で畳を蹴《け》り飛び上った。母は前へ蹲《かが》むようにして「重たいがな、これ、針でつくえ。」肩の子を見向きながらいった。子は再び静になった。
 「ええ、お母《か》さん、眠たいわア。」
 「そやでお眠たらええやないか、重たい重たい。」
 子は「いやーや」というと母の肩から辷《すべ》り下《お》りて膝《ひざ》の上へ顔を埋めた。
 「あぶないがな、針が刺《ささ》っているやないか。」
 母は膝の上の布切《きれ》を前の方へ押しやった。子の頭の頂《いただき》から首条《くびすじ》へかけて片手で撫手下《なでお》ろしながら低い声で、
 「ほんとにもうお寝、え。」といった。
 「お母さんも寝ないや。」
 「人が笑うわ、九つもなってるくせに一人で寝んなんて。」そして母は些《ち》っと黙っていたが、「お前の頭はほんとうにええ格好や。」と呟《つぶや》いた。
 母も子も黙っていた。隣家から酒気を含んだ高声《たかごえ》が聞えて来た。子は夕暮前に、井戸傍《いどばた》で隣家の主人が鶏《とり》をつぶしていたのを眼に浮べた。
 「お母さん、お隣りのはな、鶏を食べていやはるのや。」と子は母を見上げていった。
 「そんな事をいうものやない。」と母はいった。隣家の裏庭の重い障子《しょうじ》の開く音がすると、縁側の処《ところ》へ近所の兼助《かねすけ》という男が赤い顔をして立っていた。
 「お里《さと》さん、御馳走《ごっそ》だすぜ、さアお出《い》でやす。」そう男がいって子供を抱く時のように両手を出して一度振るとひょろひょろとした。
 母は微笑《わら》って「え、大きに。」といった。
 「さア、早ようやなけりゃ駄目《いけ》まへんぜ。」
 「この子がいますで後ほどまたおよばれしますわ。」と母はいった。
 「何アに、米《よね》さんは一人寝せときゃええさ、なア米さん、独人《ひと》り寝てるわのう。」と男は顔を少し突き出した。
 子は男から顔をそむけて黙って母の顔を見上げた。
 「お前ひとり寝てる?」と母は訊《き》いた。
 子は顔を横に振った。
 「あんなにいうておくれはるのやで、お前ひとり寝てな、え、直《じ》きにお母さんが帰って来るで。」
 「好《え》えさ好えさ、赤子《あかご》じゃあるまいし。」そういうと男は「どっこいしょ。」と背後へ反《そ》り返《かえ》った。母は子の頭を膝から起して「待っておい。」といって笑いながら縁側の方へ立った。そして「下駄《げた》がないわ。」と呟いた。
 「下駄のような物|入《い》るものか。」
 と男はいうと彼女の手首を掴《つか》まえて背を向けると両手で彼女の足を抱いて歩き出した。母は男の背の上で「険《あぶな》い険い。」と笑い声でいった。
 子は縁側へ走り凭《よ》って戸袋《とぶくろ》からのり出した。すると男の背上で両足をかかえられている母が隣家の庭の真中でひょろひょろしているのを見た。子は男が憎くてならなかった。そして母が非常に悪いことをしているような気がした。
 「丁度好えぞ、兼さん。」
 赤い顔をした隣家の主人がそういって笑うと、傍の主婦は脱けた前歯を手で隠すようにして淡笑《うすわら》いをした。
 子は室《へや》へは入って障子の片端を胸に押しつけると、指を舐《な》めてぷすぷすと幾つも障子に穴をあけた。もう眠たくなかった。
 暫くして子は戸袋の処からまた隣家の庭をソッと覗《のぞ》いた。母が兼の横に坐って銚子《ちょうし》を捧《ささ》げるようにしているのが見えた。子はもう母が自分の方を向くだろうと思ってその方
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