指でオカサンハ、と書いた。もう昨夜の事は夢だとは思えなかった。急に母を擲《なぐ》りつけたくなった。その時彼は砂の中に透明な桃色をしたゴマの砂粒を見付けた、彼はそれを手の平で拭《ふ》いてよく眺めていると何か貴い石にちがいないと思った。
「金剛石《ダイヤモンド》や!」
フと彼はそう思うとほんとうの金剛石のような気がした。するといよいよ金剛石だと思われた。彼はそれをすかして見てからもとあった砂の上へ置いてみた。しかし、暫く見詰《みつ》めていると外《ほか》の砂と入り交って分らなくなりそうになったので直《いそ》いでまた取り上げた。眼が些っと痛かった。
彼はだんだん嬉しくなって来た。小刀が買える、カバンが買える、とそう思った。が、直ぐその後に姉のことを思い浮べると、小刀もカバンも飛び去って、ただこの金剛石を持っているということばかりで姉が家へ帰って来られるような気がして来た。もうじっとしていられなかった。
そこへ米より三つ上の辰《たつ》という子が帰って来た。
「金剛石やぞ、これ。」
米は些っと砂粒を差し出すと直ぐ背後へ廻した。
「嘘《うそ》いえ。」と辰はいった。
米は金剛石を見せずにはいられなかった。
辰はその砂粒を取ると暫く眺めていて
「こんな金剛石あるか。」
といった。そして、不意に半分手を差し出している米の傍から、駆《か》け出《だ》した。米は、三、四|間《けん》後を追いかけたが急に真蒼《まっさお》な顔をして走り止まると大声で泣いた。
辰は米を見返って溝の中へ捨てる真似をして道傍《みちばた》の材木の上へ金剛石を乗せて、赤目を一度してそのまま帰った。
米は辰の姿が見えなくなると徐々《そろそろ》材木の方へ歩いて行った。金剛石は材木の浅い割目の中で二重に見えていた。彼はそれを掌《てのひら》の上へ乗せると笑えて来た。
家へ帰ると彼は中へは入らずに直ぐ裏へ廻って、流し元の水を受ける槽《おけ》を埋めた水溜《みずため》の縁の湿っぽい土の中へ金剛石を浅くいけ[#「いけ」に傍点]た。そこには葉蘭《はらん》が沢山|生《は》えていたので、その一本の茎を中心に小さい円を描いておいた。彼は、こうしておけば直きに金剛石が大きくなるにちがいないと思われた。それに此処は水をやらなくてもいいと思った。
四
その夕方、米は昨日見付けた柏《かしわ》の根株《ねかぶ》の蜂の巣を遂に叩《たた》き壊《こわ》して帰って来た。そこへ母が奥から出て来て魚屋の通帳を彼に渡して牛肉の鑵詰《かんづめ》を買って来いと命じた。米は母の顔が少し赤いと思った。そして外へ出る時庭に見馴《みな》れない綺麗な下駄を一足見付けた。彼は畳のような下駄だと思って履《は》こうとすると、母は「これ。」と顎を引いた。
米の家と魚屋とは親戚であったし、馴れていた。それでそこの魚屋の主人は米は障子を開ける前に、きっと叔父《おじ》さんは常日《いつ》ものように笑っているだろうと思って覗いて見たが、独人《ひと》りで恐い顔をして庭の同じ処を見詰めていた。米は今日は膝の上へ乗れないと思ったが、障子を開けると直ぐ叔父はニコニコした。
「鑵詰、牛肉のや今日は。」
米がそういうと叔父は笑いながら立って鑵詰棚へ手を延ばして「どうしたのや、先生が来たんやな。」といった。
米は家の庭にあった畳のような下駄は刺繍の先生のだなと思った。「どうや知らん。」と答えた。
叔父は鑵詰の口を開けながら風呂《ふろ》へ入れてやろうかといった。米は「やめや。」といった。すると叔父は突然、「どうや米、お前先生とお父《とっ》つァんとどっちが好きや、うん。」と訊《き》いた。
「知らんわい。」
米は仰向《あおむ》きになった叔父の膝の上へ寝そべってそういった、そして叔父の鼻の孔《あな》は何《な》ぜ黒いのだろうと考えた。
「知らん、阿呆なこといえ、お父つァんはもう嫁さん貰《もろ》うてござるぞ、どうする、ん?」と叔父は覗き込んだ。
米は腹を波形に動かして「ちがうわい、ちがうわい。」といった。しかし叔父のいう事は真実のように思われて、もう父は帰って来ないような気がして来た。母とさえ一緒にいる事が出来れば父の帰って来る来ないはそう心にかからなかった。すると、黙って叔父の手の皮膚を摘《つ》まみ上《あ》げていた彼は急に母が昨夜男と寝た事を自分が知っているのを気使って自分の留守に死んでいはすまいかと思われた。その中《うち》に涙が出て来た。で、草履を周章《あわ》ててはいて黙って帰ろうとすると、叔父は「何んじゃ米。」といった。けれど彼はやはり黙って表へ出ると馳け出した。
家へ帰った時母は鑵詰を米から受け取って「お前まアこの間|着返《きが》えた着物やないか。」
と睥《にら》んだ。彼の着物の胸から腹へかけて鑵詰の汁が飛白《かすり
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