》の白い部分を汚していた。
母が自分を見たなら抱いてくれるとばかり思っていた米は何《な》ぜだか急に他家の母の傍にいるような気がした。そして、身体をあちこちに廻しながら物を踏《ふ》み蹂《にじ》るような格好をして母を見い見い外へ出て行こうとした。「通《かよ》いは?」と母が訊いた。米は忘れて来たのを知ったが悲しくなって来たので黙って表へ出た。しかし、直ぐ金剛石のことを思い出すと裏へ廻って行って、夕闇《ゆうやみ》の迫った葉蘭《はらん》の傍へ蹲《うずくま》って、昼間描いておいた小さい円の上を指で些《ち》っと圧《おさ》えてみた。すると、間もなく、姉が帰って来て、家の者らがちりちりに生活しなくてもいいようになると思われた。しかし金剛石ではないと思うと金剛石ではないような気がして淋しくなった。
外が真暗《まっくら》になってから家の中へ入った。やはり来ていたのは刺繍の先生であった。米のその夜の夕餉《ゆうげ》の様は常日とは変っていた。餉台《ちゃぶだい》は奥の間へ持って行かれたし、母が先生の傍《そば》へつききりなので彼は台所の畳の上で独人《ひとり》あてがわれた冷《ひ》やっこい方の御飯をよそって食べ始めた。初めの裡《うち》は牛肉を食べたかったので、母が持って来てくれるまでに御飯を食べてしまわないようと少しずつ遅くかかって食べ出したが、何日《いつ》の間《ま》にかお腹が膨《ふく》れて来た。
彼が食べ終った頃、母が奥から米の傍へ皿を取りに出て来た。
「お漬物《ここ》は。」と米は訊《たず》ねた。
「うむ? うむ。」と母はいった。
「お漬物何処《ここどこ》、お母さん。」と少し米が大きな声を出すと母は「はいはい、今あげますよ。」といって奥へ行った。しかし幾ら待っても母は出て来なかった。その中《うち》に米はもう漬物《つけもの》の事を忘れてしまって箸《はし》のさきを濡らしては板の間へせっせと兵隊の画を描き初めた。どうしてこう幾度画いても帽子《ぼうし》が小さくなるのだろうと苦しんだ。
奥から餉台や汚れた食器が台所へ帰って来た。鑵詰の牛肉はもう皿の上から消えていた。米は牛肉をどうしたかと母に訊ねたかったが、そのことを奥の客に聞かれては羞《はずか》しいと思った。そして、間もなく母は再び客に奪われた。
米はあきらめて黙って紙石盤《かみせきばん》を出して来ると腹這《はらば》いになって画をかき始めた。
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