ポーランド》とプロシャとオーストリアから十一万人、これに仏領各地から出さしめた軍隊を合せて七十万人に、加うるに予備隊を合して総数百十万余人の軍勢をドレスデンへ集中させた。そうして、ナポレオンは彼の娘のごとき皇后ルイザを連れてパリーからドレスデンまで出て行った。ドレスデンではルイザの父オーストリア皇帝、プロシャ皇帝、同盟国の最高君主が一団となって、百十万余人の軍隊と共に彼ら二人の到着を出迎えた。
 この古今|未曾有《みぞう》の荘厳な大歓迎は、それは丁度、コルシカの平民ナポレオン・ボナパルトの腹の田虫を見た一少女、ハプスブルグの娘、ルイザのその両眼を眩惑《げんわく》せしめんとしている必死の戯れのようであった。
 こうして、ナポレオンは彼の大軍を、いよいよフリードランドの大原野の中へ進軍させた。

        六

 ナポレオンの腹の上では、今や田虫の版図は径六寸を越して拡っていた。その圭角《けいかく》をなくした円《まろ》やかな地図の輪郭は、長閑《のどか》な雲のように微妙な線を張って歪《ゆが》んでいた。侵略された内部の皮膚は乾燥した白い細粉を全面に漲《みなぎ》らせ、荒された茫々《ぼうぼう》たる沙漠《さばく》のような色の中で、僅《わず》かに貧しい細毛が所どころ昔の激烈な争いを物語りながら枯れかかって生《は》えていた。だが、その版図の前線一円に渡っては数千万の田虫の列が紫色の塹壕《ざんごう》を築いていた。塹壕の中には膿《うみ》を浮かべた分泌物《ぶんぴつぶつ》が溜《たま》っていた。そこで田虫の群団は、鞭毛《べんもう》を振りながら、雑然と縦横に重なり合い、各々横に分裂しつつ二倍の群団となって、脂《あぶら》の漲《みなぎ》った細毛の森林の中を食い破っていった。
 フリードランドの平原では、朝日が昇ると、ナポレオンの主力の大軍がニエメン河を横断してロシアの陣営へ向っていった。しかし、今や彼らは連戦連勝の栄光の頂点で、尽《ことごと》く彼らの過去に殺戮《さつりく》した血色のために気が狂っていた。
 ナポレオンは河岸の丘の上からそれらの軍兵を眺《なが》めていた。騎兵と歩兵と砲兵と、服色|燦爛《さんらん》たる数十万の狂人の大軍が林の中から、三色の雲となって層々と進軍した。砲車の轍《わだち》の連続は響を立てた河原のようであった。朝日に輝いた剣銃の波頭は空中に虹を撒いた。栗毛《くりげ》の馬の平
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