全然いいことをしたのではなからう。たとひお前がどれほど正当であるにしろ、お前はあの踏切りでさう云ふ轢死人のないためにと置かれた番人ではないか。それにお前があの男の傍にゐなかつたらともかく、さうではなくてお前が現にその傍についてゐたのだからね。そればかりではない、お前がもしそのとき、そこにゐなかつたなら、却つてあの男も助かつてゐただらう。それにお前がゐたばかりにあの男は死んだのだ。あの男の妻はお前のことをどんな風に思てゐるか考へたことはないかな。」
 判事の方を見た被告の眼は急に光つて来た。
「お前は妻のあつたときは楽しかつたであらう。」
「はい。」と被告は小さく云つた。
「お前は妻と子のある立派な一人の男を殺したのだとは思はないか。お前には楽しいことが何もないと云つたが、それは成る程よく分る。だが、あの男にはまだまだ楽いことがあつたのだ。世の中が面白かつたのだ。さう思ふであらう。」
 被告は黙つて俯向いてゐた。
「あの男が死んだなら、妻と子供はどんなに困ると思ふ。お前はいゝ。お前はひとりで淋しく暮さねばならぬと云つてもそれは仕方がない。だが、残つたあの男の妻と子供は、何もわざわざ淋しく
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