物でも見たことがあつたかね。」
「いえ。」
「誰からかさう云ふ書物に書いてあることを訊いた覚えはないか。」
「はい。ございません。」
「お前は傭員が時間短縮を鉄道局へ迫つたとき、それに連名してゐたと云ふではないか。」
「はい。」
「では、何ぜあのやうな社会主義的な訴へに連名してゐたのかな。」
「それは仕方がなかつたのです。私にはあんなことをするのが社会主義のやることだかどうかは知りませんでした。たゞ這入れと云はれましたので這入つただけでございます。」
「お前はいつも金持ちをどんな風に思つてゐるな。」
「別にどうとも思ひません。」
「金持ちにはなりたくないのか。」
「それやならしてやらうと仰言《おつしや》ればなりたうございます。」
「お前に連名をすすめたものは誰かな。誰かあつたであらう。」
「誰もございません。紙が廻つて来たので見ますと、それには私の名がちやんと書いてあつたのです。それには名前の上へ賛成のものは印を捺すやうと書いてございましたので、ただ印を捺しましただけでございます。」
「誰がその紙を持つて来たのか。」
「それは私の名の前に書いてあつた服部勘次と云ふ男です。」
「その男の職業は何かな。」
「同じ踏切番でございます。ただあの男は乙種の方です。」
「乙種と云ふと。」
「昼の間だけ番をするのです。」
「お前は甲種と云ふのかな。」
「はい。」
 判事はこのかなりに長い審問から、自分の質問の中心点である被告が性的な嫉妬から蕩児を轢殺したのかそれとも階級的な反感から轢殺したものかと云ふ疑ひを、相手に知らしめて了つただけで、ただ得たものは自身のその疑ひを僅かに強めることが出来たにすぎないと思ふと、彼の気持ちは一刻も早く被告に自白を迫りたくなつて来た。それには、先づ何より被告の頭に激動を与へてかからなければ無駄だと知つた。
「お前が早くから道路を遮断すると云ふのは、世間のものが敵のやうに見えたからであらうがな。」
「いえ、それはさうではございません。」
「あの道が自分のものだと思ひ出したのも、お前が独身者になつてからのことであらう。」
「いえ、さうではございませんよ。それはもう、私が務め出したときからでございます。」
「偽りを云つてはならぬ。」
「はい、それはもう最初からさう思つてをりました。」
「お前は夜遅く廓へ通ふ者達を見ると敵のやうに思ふであらう。」
「御冗談を
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