松巣林子《ちかまつそうりんし》であって、近松は実に馬琴と駢《なら》んで日本の最大者である。が、近松の作の人物が洽《あまね》く知られているは舞台に上《のぼ》せられて知られたので、その作が洽く読まれているからではない。『八犬伝』はこれに反してその作が洽く読まれて誰にも知られているから、浄瑠璃ともなれば芝居ともなったのである。恐らく古今を通じてかくの如く広く読まれ、かくの如く洽く伝唱されてるのは比類なかろう。
 したがって『八犬伝』の人物は全く作者の空想の産物で、歴史上または伝説上の名、あるいは街談|口説《くぜつ》の舌頭《ぜっとう》に上《のぼ》って伝播された名でないのにかかわらず児童走卒にさえ諳んぜられている。かくの如きは余り多くない例で、八犬士その他の登場人物の名は歴史にあらざる歴史を作って人名字書中の最大の名よりもヨリ以上に何人にも知られておる。橋本蓉塘翁がかつてこの人物を咏題として作った七律二十四篇は、あたかも『八犬伝』の人物解題となっておる。抄して以て名篇を結ぶのシノプシスとする。
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雨窓|無聊《ぶりよう》、たまたま内子《ないし》『八犬伝』を読むを聞いて戯れに二十首を作る
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[#地から2字上げ]橋本蓉塘

     金碗孝吉《かなまりたかよし》
風雲惨澹として旌旗《せいき》を捲く 仇讎《きゆうしゆう》を勦滅《そうめつ》するは此時に在り 質を二君に委《ゆだ》ぬ原《も》と恥づる所 身を故主《こしゆう》に殉ずる豈《あに》悲しむを須《ま》たん 生前の功は未だ麟閣《りんかく》に上《のぼ》らず 死後の名は先づ豹皮《ひようひ》を留む 之《これ》子生涯快心の事 呉《ご》を亡ぼすの罪を正して西施《せいし》を斬る
     玉梓《たまづさ》
亡国の歌は残つて玉樹空し 美人の罪は麗花と同じ 紅鵑《こうけん》血は灑《そそ》ぐ春城《しゆんじよう》の雨 白蝶魂は寒し秋塚《しゆうちよう》の風 死々生々|業《ごう》滅し難し 心々念々|恨《うらみ》何ぞ窮《きわ》まらん 憐れむべし房総佳山水 渾《すべ》て魔雲障霧の中に落つ
     伏姫《ふせひめ》
念珠|一串《いつかん》水晶明らか 西天を拝し罷《や》んで何ぞ限らんの情 只道下|佳人《かじん》命|偏《ひとえ》に薄しと 寧ろ知らん|毒婦恨《どくふのうらみ》平らぎ難きを 業風《ごうふう》過ぐる処《ところ》花空しく落ち 迷霧開く時銃忽ち鳴る 狗子《くし》何ぞ曾《かつ》て仏性無からん 看経《かんきん》声裡|三生《さんせい》を証す
     犬塚信乃《いぬつかしの》
芳流傑閣勢ひ天に連なる 奇禍危きに臨んで淵を測らず ※[#「足へん+圭」、第4水準2−89−29]歩《きほ》敢て忘れん慈父の訓 飄零《ひようれい》枉《ま》げて受く美人の憐み 宝刀|一口《ひとふり》良価を求む 貞石三生宿縁を証す 未だ必ずしも世間偉士無からざるも 君が忠孝の双全を得るに輸《つく》す
     浜路《はまじ》
一陣の※[#「堽のつくり」、第4水準2−84−76]風《こうふう》送春を断す 名花空しく路傍の塵に委す 雲鬟《うんかん》影を吹いて緑地に粘《でん》す 血雨声無く紅巾に沁《し》む 命薄く刀下の鬼となるを甘んずるも 情は深くして豈《あに》意中の人を忘れん 玉蕭《ぎよくしよう》幸ひに同名字あつて 当年未了の因を補ひ得たり
     犬川荘助《いぬかわそうすけ》
忠胆義肝|匹儔《ひつちゆう》稀なり 誰か知らん奴隷それ名流なるを 蕩郎《とうろう》枉げて贈る同心の結《むすび》 嬌客俄に怨首讎《えんしゆしゆう》となる 刀下|冤《えん》を呑んで空しく死を待つ 獄中の計|愁《うれい》を消すべき無し 法場|若《も》し諸人の救ひを欠かば 争《いか》でか威名八州を振ふを得ん
     沼藺《ぬい》
残燈影裡刀光閃めく 修羅闘一場を現出す 死後の座は金※[#「くさかんむり/函」、第3水準1−91−2]※[#「くさかんむり/啗のつくり」、第4水準2−86−33]《きんかんたん》を分ち 生前の手は紫鴛鴦《しえんおう》を繍《ぬ》ふ月※[#「さんずい+冗」、第4水準2−78−26]《げつちん》秋水珠を留める涙 花は落ちて春山土|亦《また》香ばし 非命|須《すべか》らく薄命に非ざるを知るべし 夜台長く有情郎に伴ふ
     犬山道節《いぬやまどうせつ》
火遁の術は奇にして蹤《あと》尋ね※[#「匚<口」、第4水準2−3−67]《かた》し 荒芽山畔|日《ひ》将《まさ》に※[#「さんずい+冗」、第4水準2−78−26]《しず》まんとす 寒光地に迸《ほとばし》つて刀花乱る 殺気人を吹いて血雨|淋《りん》たり 予譲《よじよう》衣を撃つ本意に非ず 伍員《ごいん》墓を発《あば》く豈《あに》初心ならん 品川に梟示《
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