にしてももとが小説だから勝手な臆測が許されるが、左母二郎が浪路《なみじ》を誘拐して駕籠《かご》を飛ばして来たは大塚から真直ぐに小石川の通りを富坂《とみさか》へ出て菊坂あたりから板橋街道へ出たものらしい。円塚山はこの街道筋にあるので、今の燕楽軒から白十字・パラダイス・鉢の木が軒を並べるあたりが道節の寂寞道人肩柳《じゃくまくどうじんけんりゅう》や浜路の史跡である。小説の史跡を論ずるのは極楽の名所|図会《ずえ》や竜宮の案内記を書くようなものだが、現にお里の釣瓶鮨《つるべずし》のあとも今なお連綿として残り、樋口の十郎兼光の逆櫓《さかろ》の松も栄え、壺阪では先年|沢市《さわいち》の何百年|遠忌《おんき》だかを営んだ。『八犬伝』の史蹟も石に勒して建てられる時があるかも知れない。(市川附近や安房の富山には『八犬伝』の遺跡と伝えられる処が既にあるという咄だ。)
 が、そういう空想史蹟は暫く措いて、単なる地理的興味から見て頗る味わうべきものがしばしばある。小文吾が荒猪を踏み殺したは鳥越《とりごえ》であるが、鳥越は私が物心覚えてからかなり人家の密集した町である。徳川以前、足利の末辺にもせよ、近くに山もないに野猪が飛び出すか知らん。(もっとも、『十方庵遊歴雑記』に向嶋の弘福寺が境内寂寞としてただ野猿の声を聞くという記事があるが、奥山の猿芝居の猿の声ではなさそうだ。)また、この鳥越から海が見えるという記事がある。湯嶋の高台からは海が見えるから、人家まばらに草茫々と目に遮《さえぎ》るものもないその頃の鳥越からは海が見えたかも知れぬが、ちょっと異《い》な感じがする。
 芳流閣の屋根から信乃と現八とが組打して小舟の中に転がり落ち、はずみに舫綱《もやいづな》が切れて行徳《ぎょうとく》へ流れるというについて、滸我《こが》即ち古賀からは行徳へ流れて来ないという説がある。利根の一本筋だから引汐なら行徳へ流れないとも限らないが、古賀から行徳まではかなりな距離があって水路が彎曲している。その上に中途の関宿《せきやど》には関所が設けられて船舶の出入に厳重であったから、大抵な流れ舟はここで抑留される。さもなくとも、川は曲りくねって蘆荻《ろてき》が密生しているから小さな舟は途中で引っ掛ってしまう。到底無事に行徳まで流れて来そうもない。
 夷※[#「さんずい+(旡+旡)/鬲」、第3水準1−87−31]《いしみ》の館山《たてやま》(素藤《もとふじ》の居城)というは今も同じ地名の布施村や国府台《こうのだい》に近接する立山《たてやま》であろう。稲村まではかなりの里程があって、『八犬伝』でも一泊二日路であるが、妙椿が浜路を誘拐するに幻術で雲にでも乗って来たら宜さそうなもんだのに、小脇に引っ抱えてズルんかズルんか引き摺って来て南弥六《なみろく》に邪魔をされ折角誘拐して来た浜路を伏姫神霊に取り返される。素藤が初め捕われて再挙を謀る間潜伏した山というはどの辺を指すのか解らぬが、夷隅《いすみ》は海岸を除いては全郡山地があるが山がすべて浅くて且つ低くて人跡未到というような感じのある処はなさそうだ。房総はすべて馬の背のような地形で、山脈が連亘《れんこう》して中央部を走っているが、高山も大山もない。伏姫が山入した富山(トミサンと呼ぶ、トヤマでもトミヤマでもない)の如きも、『八犬伝』に形容されてるような高峻な山ではない。最高峰の観音堂は『八犬伝』に由《よ》ると義実《よしさね》の建立となってるが、寺記には孝謙天皇の御造立となっている。安房は国史にはかなり古いが、徳川氏が江戸を開く以前は中央首都から遠い辺陲《へんすい》の半島であったから極めて歴史に乏しく、したがって漁業地としてのほかは余り認められていない。安房が著名になったのは全く『八犬伝』以来であるから、『八犬伝』の旧蹟は準史蹟として見てもイイかも知れない。
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(『八犬伝』の地理学は起稿当初の腹案であったが、実地を踏査しなければ解らぬ個処が存外多いのですべて他日の機会に譲ることにした。『八犬伝』地図も添ゆる予定であったが、同じ理由で。)
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       五 馬琴の日記

『八犬伝』が日本の小説中飛び離れて挺《ぬき》んでている如く、馬琴の人物もまた嶄然《ざんぜん》として卓出している。とかくの評はあっても馬琴の如く自ら信ずるところ厚く、天下の師を以て任じたのは他にはない。古今作者を列べて著述の量の多いのと、なかんずく大作に富めると、その作の規模結構の大なると、その態度の厳粛なると、その識見の高邁《こうまい》なると、よく馬琴に企て及ぶものは殆んどない。
 が、作に秀でたのは、鯛よりは鰯の生きのイイ方が旨《うま》い、牡丹よりは菜の花の方が風情《ふぜい》があるというと同じ好《す》き不好《ぶす》きを別として大抵異論
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