然たる戦車の上に六人の銃手が銃口を揃えてるのは凄《すさ》まじい。天下の管領の軍隊だから葡萄牙《ポルトガル》人よりも先に何百挺何千挺の鉄砲を輸入しても妨げないが、野武士や追剥までが鉄砲をポンポン撃つのは余り無鉄砲過ぎる。網苧の山里の立場《たてば》茶屋に猪嚇《ししおど》しの鉄砲が用意してあるほどなら、道節も宝刀を捻《ひね》くり廻して居合抜《いあいぬき》の口上のような駄弁を弄《ろう》して定正に近づこうとするよりもズドンと一発ブッ放した方が余程早手廻しだったろう。
 こういうと偏痴気論になる。小説だもの、鱶七《ふかしち》が弁慶の長上下《ながかみしも》で貧乏徳利をブラ下げて入鹿御殿に管《くだ》を巻こうと、芝居や小説にいちいち歴史を持出すのは余程な大白痴《おおばか》で、『八犬伝』の鉄砲もまた問題にならない。が、ウソらしいウソは問題にならないが、ホントウらしく聞えるウソは小説だと思っても欺されるから問題になる。弁慶の七つ道具の中にピストルがあったといっても誰も問題にしないが、長禄に安房の田舎武士が鉄砲を持っていたというと、ちょっと首を傾《かし》げさせる。いわんや説話者が博覧の穿鑿好きたる馬琴であるから、眉に唾をつけながらも考えさせられる。
 鉄砲は暫らくお預けとして、長禄というと太田道灌《おおたどうかん》が江戸城を築いた年である。『八犬伝』には道灌は影になってるが、道灌の子の助友は度々顔を出してる。江戸は『八犬伝』の中心舞台で、信乃《しの》が生れ額蔵《がくぞう》が育った大塚《おおつか》を外にしても神田《かんだ》とか湯嶋《ゆしま》とか本郷《ほんごう》とかいう地名は出るが「江戸」という地名は見えない。江戸城を匂わせるような城も見えない。両管領との大戦争に里見方は石浜、五十子《いさらこ》、忍岡《しのぶがおか》、大塚の四城を落しているが、その地理的位置が江戸城を懐《おも》わせるようなのはない。もっとも江戸城なぞは有っても無くても『八犬伝』の本筋には少しも関係しないが、考証好きの馬琴が代る代るに犬士をこの地方に遍歴《へめぐ》らさして置いて江戸城を見落さしたのを不思議に思う。
 前にもいったが、『八犬伝』の中心舞台は安房よりも江戸であって、事件が多くは江戸あるいは江戸人に親しみのある近国で発展したのが少なくも中央|都人士《とじんし》の興味を湧かさした原因の一つである。殊に一番人気のある信乃を主役として五犬士の活躍するは、大塚を本舞台として巣鴨《すがも》・池袋《いけぶくろ》・滝《たき》の川《がわ》・王子《おうじ》・本郷に跨《また》がる半円帯で、我々郊外生活者の遊歩区域が即ち『八犬伝』の名所旧蹟である。一体大塚城というのはドコにあったろう? そんな問題を出すのがそもそも野暮のドン詰りであるが、もともと城主の大石というのが定正の裨将《ひしょう》であるから、城と称するが実は陣屋《じんや》であろう。いわゆる「飯盛《めしもり》も陣屋ぐらいは傾ける」程度の飯盛相当の城であろう。ところで、城にしろ陣屋にしろどの辺であるか見当が附かぬが、信乃が幼時を過ごした大塚は、信乃の家の飼犬が噛み殺した伯母の亀篠《かめざさ》の秘蔵猫に因《ちな》んで橋名を附けられたと作者が考証する簸川《ひかわ》の猫股橋《ねこまたばし》というのが近所であるから、それから推して氷川|田圃《たんぼ》に近い、今の地理的考証から推して氷川田圃に近き今の高等師範の近辺であろう。荘助の額蔵が処刑されようとした庚申塚《こうしんづか》の刑場も近く、信乃の母が滝の川の岩屋へ日参したという事蹟から考えても高等師範近所と判断するが当っているだろう。
 ところで信乃がいよいよ明日は滸我《こが》へ旅立つという前晩、川狩へ行って蟇六《ひきろく》の詭計に陥《は》められて危《あぶ》なく川底へ沈められようとし、左母二郎《さもじろう》に宝刀を摩替《すりか》えられようとした神宮川《かにはがわ》というは古名であるか、それとも別に依拠《よりどころ》のある仮作名であるか、一体ドコを指すのであろう。信乃が滝の川の弁天へ参詣した帰路に偶然|邂逅《であ》ったように趣向したというのだから、滝の川近くでなければならないので、多分荒川の小台《おだい》の渡し近辺であろう。仮にそう定めて置いて、大塚から点燈《ひともし》頃にテクテク荒川くんだりまで出掛け、水の中で命のやりとりの大芝居をして帰ったのが亥《い》の刻過ぎたというから十時である。往返《ゆきかえり》をマラソンでヘビーを掛け、水中の実演を余程高速度で埒《らち》を明けなければとても十時には帰って来られない。が、荒川より近くには神宮川のような大きな川はない。
 道節が火定《かじょう》に入った円塚山《まるづかやま》というは名称の類似から本郷の丸山だろうともいうし、大学の構内の御殿の辺だろうという臆説もある。ドッチ
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