山が罵るのは決して穏やかでない。小身であっても武家奉公をし、医を志した馬琴である。下駄屋の入夫《にゅうふ》を嫌って千蔭《ちかげ》に入門して習字の師匠となった馬琴である。その頃はもう黄表紙《きびょうし》時代と変って同じ戯作《げさく》の筆を執っていても自作に漢文の序文を書き漢詩の像讃をした見識であったから、昔を忘れたのは余り褒《ほ》められないが幇間《ほうかん》芸人に伍する作者の仲間入りを屑《いさぎよ》しとしなかったのは万更無理はなかった。馬琴に限らず風来《ふうらい》なぞも戯作に遊んだが作者の仲間附合はしなかったので、多少の見識あるものは当時の作者の仲間入りを欲しなかったのみならず作者からもまた仲間はずれにされたのである。
だが、馬琴は出身の当初から京伝を敵手と見て競争していたので、群小作者を下目《しため》に見ていても京伝の勝れた作才には一目置いていた。『作者部類』に、あの自尊心の強い馬琴が自ら、「臭草紙《くさぞうし》は馬琴、京伝に及ばず、読本《よみほん》は京伝、馬琴に及ばず」と案外公平な評をしているのは馬琴が一歩譲るところがあったからだろう。それと同様、『蜘蛛の糸巻』に馬琴を出藍の才子と称し、「読本といふもの、天和《てんな》の西鶴《さいかく》に起り、自笑《じしょう》・其磧《きせき》、宝永正徳《ほうえいしょうとく》に鳴りしが馬琴には三舎すべし」と、京伝側を代表する京山が、これもまた案外公平な説を立ててるのは、京伝・馬琴が両々相対して下らざる互角の雄と見做《みな》したのが当時の公論であったのだろう。二人は遠く離れて睨み合っていても天下の英雄は使君と操とのみと互いに相許していたに違いない。が、京伝は文化十三年馬琴に先んじて死し、馬琴はそれ以後『八犬伝』の巻を重ねていよいよ文名を高くし、京伝に及ばずと自ら認めた臭草紙でも『傾城《けいせい》水滸伝』や『金毘羅船《こんぴらぶね》』のような名篇を続出して、盛名もはや京伝の論ではなくなっている。馬琴としては区々世評の如きは褒貶《ほうへん》共に超越して顧みないでも、たとえば北辰《ほくしん》その所にいて衆星これを繞《めぐ》るが如くであるべきである。それにもかかわらず、とかくに自己を挙げて京伝を貶《へん》する如き口吻《こうふん》を洩らすは京山のいう如く全くこの人にしてこの病ありで、この一癖が馬琴の鼎《かなえ》の軽重を問わしめる。
馬琴の人
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