はないが、人物となるとまた、古今馬琴の如く嫌われてるのは少ない。或る雑誌で、古今文人の好き嫌いという題で現代文人の答案を求めたに対し、大抵な人が馬琴を嫌いというに一致し、馬琴を好きと答えたものは一人もなかった。ただに現代人のみならず、その当時からして馬琴は嫌われていた。正面から馬琴に怨声を放って挑戦したのは京山《きょうざん》一人であったが、少なくも馬琴が作者間に孤立していて余り交際しなかった一事に徴するも、馬琴に対して余り好感を持つものがなかったのは推測《おしはか》られる。馬琴が交際していたのは同じ作者仲間よりはむしろ愛読者、殊に遠方の文書で交際する殿村篠斎《とのむらじょうさい》の連中であって親しくその家に出入して教を乞うものでなかった。ただ文書を以て交際するだけなら折々小面倒で嫌気《いやき》を生ずる事があってもそれほど深く身に染《し》みないが、面と向っては容易に親しまれないで、小難《こむず》かしくて気ブッセイで堪えられなかったろう。とかくに気難《きむず》かしくて機嫌の取りにくかったのは、家人からでさえ余り喜ばれなかったのを以てもその人となりを知るべきである。
京伝と仲たがいした真因は判然しないが、京山の『蜘蛛の糸巻』、馬琴の『伊波伝毛之記《いわでものき》』および『作者部類』を照らし合わしてみると、彼我のいうところ(多少の身勝手や、世間躰を飾った自己弁護はあっても)、みな真実であろう。馬琴が京伝や蔦重《つたじゅう》の家を転々して食客となり、処女作『尽用而二分狂言《つかいはたしてにぶきょうげん》』に京伝門人大栄山人と署したは蔽い難い。僅か三歳でも年長者であるし、その時既に相応の名を成していたから、作者として世間へ乗り出すには多少の力を仰いだ事はあろうが、著作上教えられる事が余り多くあったとは思われない。京伝門人と署したのは衣食の世話になった先輩に対する礼儀であって、師礼を執って教を受けた関係でなかったのは容易に想像される。玄関番の書生が主人を先生と呼ぶようなものだ。もっとも一字の師恩、一飯の恩という事もあり、主従師弟の厳《やか》ましかった時代だから、両者の関係が漸く疎隔して馬琴の盛名がオサオサ京伝を凌がんとすると京伝側が余り快く思わぬは無理もないが、馬琴が京伝に頼った頃の何十年も昔の内輪咄《うちわばなし》を剔抉《すっぱぬ》いて恩人風を吹かし、人倫とはいい難しとまで京
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