―」という条件付きであったのである。
三文文学とか「チープ・リテレチュア」とかいう言葉は今でも折々繰返されてるが、斯ういう軽侮語を口にするものは、今の文学を研究して而して後鑑賞するに足らざるが故に軽侮するのではなくて、多くは伝来の習俗に俘《とら》われて小説戯曲其物を頭から軽く見ているからで、今の文学なり作家なりを理解しているのでは無い。イブセンやトルストイが現われて来ても渠等は矢張り三文文学、チープ・リテレチュアを口にするであろう。
然るに不思議なるは二十何年前には文人自身すら此の如き社会的軽侮を受くるを余り苦にしないで、文人の生活は別世界なりとし、此の別世界中の理想たる通とか粋とかを衒って社会と交渉しないのを恰も文人としての当然の生活なるかのように思っていた。
渠等の多くは京伝や馬琴や三馬の生活を知っていた。売薬や袋物を売ったり、下駄屋や差配人をして生活を営んでる傍ら小遣取りに小説を書いていたのを知っていた、今日でこそ渠等の名は幕府の御老中より高く聞えてるが其生存中は袋物屋の旦那であった、下駄屋さんであった、差配の凸凹爺であった。社会の公民としては何等の位置も権力も無かったのである。渠等が幅を利かすは本屋や遊里や一つ仲間の遊民に対する場合だけであって、社会的には袋物屋さん下駄屋さん差配さんたるより外仕方が無かったのである。
斯ういう生活に能く熟している渠等文人は、小説や院本は戯作というような下らぬもので無いという事が坪内君や何かのお庇で解って来ても、社会的には職業として完全に独立出来ず、位置も資格も権力も無い遊民と見られていても当然の事として少しも怪まなかった。加うるに持って生れた通人病や粋人癖から求めて社会から遠ざかって、浮世を茶にしてシャレに送るのを高しとする風があった。当時の硯友社や根岸党の連中の態度は皆是であった。
尤も伝来の遺習が脱け切れなかった為めでもあるが、一つには職業としての文学の存立が依然として難かしいのが有力なる大原因となっておる。今より二十何年前にはイクラ文人が努力しても、文人としての収入は智力上遥に劣ってる労働階級にすら及ばないゆえ、他の生活の道を求めて文学を片商売とするか、或は初めから社会上の位置を度外して浮世を茶にして自ら慰めるより外仕方が無かったのである。
勿論、今日と雖も文人の生活は猶お頗る困難であるが二十何年前には新聞社内に於ける文人の位置すら極めて軽いもので、紅葉の如き既に相当の名を成してから読売新聞社に入社したのであるが、猶お決して重く待遇されたのでは無かった。シカモ文人として生活するには薄い待遇を忍んで新聞記者となるより外に道が無かった。今日の如く雑誌の寄書家となって原稿料にて生活する事は全く不可能であった。偶々二三の人が著述に成功して相当の産を作った例外の例があっても、斯ういう文壇の当り屋でも今日の如く零細なる断片的文章を以てパンに換える事は決して出来なかった。
夫故、当時に在っては文人自身も文学を以て生活出来ると思わなかった。文人が公民権が無くとも、代議士は愚か区会議員の選挙権が無くとも、社会的には公人と看做されないで親族の寄合いに一人前の待遇を受けなくとも文人自身からして不思議と思わなかった。寧ろ文人としては社会から無能者扱いを受けるのを当然の事として、残念とも思わず、憤慨するものも無かった。
今より十七八年前、誰やらが『我は小説家たるを栄とす』と放言した時、頻りに其の意気の壮んなるに感嘆されたが、此の放言が壮語として聞かれ、異様に響きて感嘆さるゝ間は小説家の生活は憐むべきものであろう。が、当時は此の壮語を吐いて憤悶を洩らすものは一人も無かったのである。
博文館の雑誌経営が成功して、雑誌も亦ビジネスとして立派に存立し得る事が証拠立てられてから、有らゆる出版業者は皆奮って雑誌を発行した。文人が活動し得る舞台が著るしく多くなった。文人は最早非常なる精力を捧ぐる著述に頼らなくても習作的原稿、断片的文章に由て生活し得るようになった。文人は最早新聞社の薄い待遇にヒシ/\と縛られずとも自由に楽んでパンを得る事が出来るようになった。
斯うなると文人は袋物屋さんや下駄屋さんや差配人さんを理想とせずとも済む。文人は文人として相当に生活できる。仮令猶お立派に門戸を張る事が出来なくとも、他の腰弁生活を羨むほどの事は無い。公民権もある、選挙権もある。市の廓清も議院の改造も出来る。浮世を茶にせずとも自分の気に入るように革新出来ぬ事は無い。文人の生活は昔とは大に違っている。今日では何も昔のように社会の落伍者、敗北者、日蔭者と肩身を狭く謙《へ》り下らずとも、公々然として濶歩し得る。今日の文人は最早社会の寄生虫では無い、食客では無い、幇間では無い。文人は文人として堂々社会に対する事が出来る。
今日の若い新らしい作家の中には二十五六年前には未だ生れない人もある。其大部分は幼稚園若くは尋常一二年の童児であったろう。此の時代、文人の収入を得る道が乏しく、文人が職業として一本立ちする能わず、如何に世間から軽侮せられ、歯《よわ》いされなかったかは今の若い作家たちには十分レハイズする事が出来ぬであろう。今日でも文学は他の職業と比べて余り喜ばれないのは事実である。が、然し乍ら今日では不利益なる職業と見らるゝだけであるが、二十五六年前には無頼者の仕事と目されていた。最も善意に解釈して呉れる人さえが打つ飲む買うの三道楽と同列に見て、我々文学に親む青年は、『文学も好いが先ず一本立ちに飯が喰えるようになってからの道楽だ』と意見されたものだ。夫が今日では大学でも純粋文学を教授し、文部省には文芸審査委員が出来て一年中の傑作が国家の名を以て選奨せらるゝようになった。文部省の文芸審査に就て兎角の議論をする人があるが政府は万能で無いから政府の行う処必ずしも正鵠では無い。且文芸上の作品の価値は区々の秤尺に由て討議し、又選票の多寡に由て決すべきもので無いから、文芸審査の結果が意料外なるべきは初めから予察せられる。之を重視するのが誤まっておるのだが、二十五六年前には全然社会から無視せられていた文芸の存在を政府が認めて文芸審査に着手したのは左も右くも時代の大進歩である。
文学も亦一つの職業である。世間には往々職業というと賤視して顰蹙するものもあるが、職業は神聖である。賤視すべきものでは無い。斯ういう職業を賤視する人たちの祖先たる武士というものも亦一つの職業であって封建の家禄世襲制度の恩沢を蒙むって此の武士という職業が維持せられたればこそ日本の大道楽なるかの如く一部の人たちに尊奉せらるゝ武士道が大成したので、若し武士が家禄を得る道なく生活の安全を保証されなかったなら武士道如きは既くに亡びて了ったであろう。文学を職業たらしむるだけの報償を文人に与えずして三文文学だのチープ・リテレチュアだのと冷罵するのみを能事としていて如何して大文学の発現が望まれよう。文学として立派に職業たらしむるだけの報酬を文人に与え衣食に安心して其道に専らなるを得せしめ、文人をして社会の継子たるヒガミ根性を抱かしめず、堂々として其思想を忌憚なく発露するを得せしめて後初めて文学の発達を計る事が出来る。文人が社会を茶にしたり呪ったりするは文学の為めにもならなければ国家の為めにも亦不祥である。
そこで、左も右くも今日、文学が職業として成立し、多くの文人中には大臣の園遊会に招かれて絹帽《シルクハット》を被って出掛けるものも一人や二人あるようになったのは、文人の社会的位置が昔から比べて重くなった証拠であるが、我々は猶お進んで職業上の権利を主張し、社会上の勢力を張らねばならぬ。社会をして文人の存在を認めしめたゞけでは足りない。更に進んで文人の権威を認めしめるように一大努力をしなければならぬ。
小生は今は文学論をするツモリでないから、現在の文学其ものに就ては余り多くを云わない。唯、文学論としてよりは小生一個の希望――文学に対する註文を有体に云うと、今日の享楽主義又は耽美主義の底には、沈痛なる人生の叫びを蔵しているのを認めないではないが、何処かに浮気な態度があって昔の硯友社や根岸党と同一気脈を伝うるのを慊《あきた》らず思ってる。咏嘆したり長※[#「※」は「口+喜」、第3水準1−15−18、読みは「き」、191−4]したり冷罵したり苦笑したりするも宜かろう。が、人生の説明者たり群集の木鐸たる文人はヨリ以上冷静なる態度を持してヨリ以上深酷に直ちに人間の肺腑に蝕い入って、其のドン底に潜むの悲痛を描いて以て教えなければならぬ。今日以後の文人は山林に隠棲して風月に吟誦するような超世間的態度で芝居やカフェーにのみ立籠っていて人生の見物左衛門となり見巧者訳知りとなったゞけでは足りない。日本の文人は東京の中央で電灯の光を浴びて白粉の女と差向いになっていても、矢張り鴨の長明が有為転変を儚なみて浮世を観ずるような身構えをしておる。同じデカダンでも何処かサッパリした思い切りのいゝ精進潔斎的、忠君愛国的デカダンである。国民的の長所は爰であろうが短所も亦爰である。最っと油濃く執拗く腸の底までアルコールに爛らして腹の中から火が燃え立つまでになり得ない。モウパスサンは狂人になった。ニーチェも狂人になった。日本の文人は好い加減な処で忽ち人生の見巧者となり通人となって了って、底力の無い声で咏嘆したり冷罵したり苦笑したりする。
小生は文学論をするツモリで無いから文学其物に就ては余り多くを云うを好まぬが、二十五年前には道楽であった文学が今日では職業となり、最早袋物屋さん下駄屋さん差配人さんを理想としないでも済むようになった事実を見て、職業としての文学が最う少し重くなければならぬ。文人の社会的地位が今一層高くなければならぬ事を痛切に感ずる。
有体に言うと今の文人の多くは各々蝸牛の殻を守るに汲々として互いに相褒め合ったり罵り合ったりして聊かの小問題を一大事として鎬を削ってる。毎日の新聞、毎月の雑誌に論難攻撃は絶えた事は無いが、尽く皆文人対文人の問題――主張対主張の問題では無い――であって、未だ嘗て文人対社会のコントラバーシーを、一回たりとも見た事が無い。恐らく之は欧洲大陸に類例なき日本の文壇の特有の現象であろう。文人としての今日の欲望は文人同志の本家争いや功名争いでなくて、今猶お文学を理解せざる世間の群集をして文人の権威を認めしむるのが一大事であろう。
二十五年前と比べたら今日の文人は職業として存立し得るだけ社会に認められて来た。が、人生及び社会を対象とする今日以後の文人は、昔の詩人のように山林に韜晦する事は出来ない。都会に生活して群集と伍し、直接時代に触れなければならぬ。然るに文人に強うるに依然清貧なる隠者生活を以てし文人をして死したる思想の木乃伊《ミイラ》たらしめんとする如き世間の圧迫に対しては余り感知せざる如く、蝸牛の殻に安んじて小ニヒリズムや小ヘドニズムを歌って而して独り自ら高しとしておる。一部の人士は今の文人を危険視しているが、日本の文人の多くは、ニヒリスト然たる壁訴訟をしているに関わらず、意外なる楽天家である。
新旧思想の衝突という事を文人の多くは常に口にしておるが、新思想の本家本元たる文人自身は余り衝突しておらぬ。いつでも旧思想の圧迫に温和しく抑えられて服従しておる。文人は文人同志で新思想の蒟蒻屋問答や点頭き合いをしているだけで、社会に対して新思想を鼓吹した事も挑戦した事も無い。今日のような思想上の戦国時代に在っては文人は常に社会に対する戦闘者《ファイター》でなければならぬが、内輪同士では年寄の愚痴のような繰言を陳べてるが、外に対しては頭から戦意が無く沈黙しておる。
二十五年の歳月が聊かなりとも文人の社会的位置を進めたのは時代の進歩として喜ぶべきであるが、世界の二大戦役を終って一躍して一等国の仲間入りした日本としては文人の位置は猶お余りに憐れで無かろう乎。例えば左にも右くにも文部省が功労者と認めて選奨した坪内博士、如何なる偏見を抱いて見るも穏健老実なる紳士と認めらるべき思
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