見て、職業としての文学が最う少し重くなければならぬ。文人の社会的地位が今一層高くなければならぬ事を痛切に感ずる。
 有体に言うと今の文人の多くは各々蝸牛の殻を守るに汲々として互いに相褒め合ったり罵り合ったりして聊かの小問題を一大事として鎬を削ってる。毎日の新聞、毎月の雑誌に論難攻撃は絶えた事は無いが、尽く皆文人対文人の問題――主張対主張の問題では無い――であって、未だ嘗て文人対社会のコントラバーシーを、一回たりとも見た事が無い。恐らく之は欧洲大陸に類例なき日本の文壇の特有の現象であろう。文人としての今日の欲望は文人同志の本家争いや功名争いでなくて、今猶お文学を理解せざる世間の群集をして文人の権威を認めしむるのが一大事であろう。
 二十五年前と比べたら今日の文人は職業として存立し得るだけ社会に認められて来た。が、人生及び社会を対象とする今日以後の文人は、昔の詩人のように山林に韜晦する事は出来ない。都会に生活して群集と伍し、直接時代に触れなければならぬ。然るに文人に強うるに依然清貧なる隠者生活を以てし文人をして死したる思想の木乃伊《ミイラ》たらしめんとする如き世間の圧迫に対しては余り感知せざる如く、蝸牛の殻に安んじて小ニヒリズムや小ヘドニズムを歌って而して独り自ら高しとしておる。一部の人士は今の文人を危険視しているが、日本の文人の多くは、ニヒリスト然たる壁訴訟をしているに関わらず、意外なる楽天家である。
 新旧思想の衝突という事を文人の多くは常に口にしておるが、新思想の本家本元たる文人自身は余り衝突しておらぬ。いつでも旧思想の圧迫に温和しく抑えられて服従しておる。文人は文人同志で新思想の蒟蒻屋問答や点頭き合いをしているだけで、社会に対して新思想を鼓吹した事も挑戦した事も無い。今日のような思想上の戦国時代に在っては文人は常に社会に対する戦闘者《ファイター》でなければならぬが、内輪同士では年寄の愚痴のような繰言を陳べてるが、外に対しては頭から戦意が無く沈黙しておる。
 二十五年の歳月が聊かなりとも文人の社会的位置を進めたのは時代の進歩として喜ぶべきであるが、世界の二大戦役を終って一躍して一等国の仲間入りした日本としては文人の位置は猶お余りに憐れで無かろう乎。例えば左にも右くにも文部省が功労者と認めて選奨した坪内博士、如何なる偏見を抱いて見るも穏健老実なる紳士と認めらるべき思
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