青い罫や赤い罫の帳面と睨めくらしなくても自働車の音には毎日脅かされている。ガソリンの臭いや塵埃を浴びせられても平気になってるほど仙人にはなれない。
▲我々は市中に生れて市中に育ったものだ。身体《からだ》の習慣が市街生活に馴らされておる。空気が良いというような単純な理由で郊外生活を楽む事は出来ない。其の市外の子なる我々が経済上の圧迫で市外に駆逐されて、拠ろなしに電車の便利を口にしなけりゃならんのだ。交通の便利という満足の中に悲哀が含まれておる。
▲人口が過剰すると淘汰が行われる。限りある都市の地積が一杯になると四捨五入して余分を市外に掃出さねばならない。交通の便利というは此淘汰を行う為めの準備であって、四捨五入で弾き出される我々は電車に乗るべき任務を背負わせられるのだ。
▲電車のお客様の大多数は我々階級のものである。我々以下の労働者の為めには特に割引車というものがあるから乗客の大多数は我々階級のもの、即ち既に市から掃出されたか、或は早晩掃出さるべき運命を持ってるものである。其都市の劣敗者――というのが悪るければ弱者――が毎日電車に乗って市の重大なる財源の供給者となっている。
▲交通の便利の恩恵を受けるのは市の附近の農民で、ツイ十五六年前までは一反いくらという田や畑が宅地となって毎年五六割ずつ騰貴する。甚だしきは一時に二倍三倍に飛上る。夫までは糞桶《こえたご》を担いでいた百姓が俄に紋付の羽織を着る地主様となって、お邸の旦那様が一朝にして下掃除人《しもそうじにん》の地借《じがり》或は店借《たながり》となって了う。経済上の変革が齎らす位置転換も爰に到って頗る甚だしい。尤も狡猾な都会人に欺かれて早くから地所を手放して了ったのもあるが、中には拱手して忽ち意外なる市街地の大地主となったものもある。都会の成金は屡々嘲弄嫉妬の目標となったが、市外の成金は誰にも気が付かれない中に労働者から大紳士になって了った。
▲郊外の場所に由ると市内の山の手よりも高い相場の地所がある。将来の騰貴を予期して不相当なる高値を歌ってるものもある。我々は既に市内を駆逐され或は将に駆逐されんとしているが、郡部でも電車の便利に浴する地には段々住えなくなりそうだ。或る人が来て、景色の好い上に馬鹿に安い地所があるから移転《ひっこ》さないかと云うから、何処かと聞くと、市外五里の辺鄙な田舎《いなか》である。我々は終に電車も電灯も瓦斯も電話も水道も無い、有らゆる文明から全く塗絶された僻遠の地に引込まねばならないかも知れない。我々はアイノ人のように段々奥へ奥へと追払われるのだ。
▲親から貰う学費で下宿料を払ってる時代はノンキに人形町の夜の景色を歌っていられるが、扨て職業となると文士生活は門外で見るほど気楽じゃ無い。人形町に憧がれたものが万年町を歌うようになるかも知れない。都会の咏嘆者が田舎の讃美者とならざるを得なくなる。
▲文科大学の学費を調べたものを見ると、上中下の三級に分った下級の費用すらが年額六百円を算当してある。月に五十円を要するわけだ。駈出しの文学士では五十円の月給を取れない人がある。学校卒業生の問題は文学士ばかりじゃないが、大学出身者中で文学士が最も気の毒な境涯にある。二十年前に、嫁に行くなら文学士か理学士に限ると高等女学校の生徒の前で演説して問題を惹起した人があるが、文人と新聞記者とは今日では嫁に呉れての無い嫌われ者の随一である。
▲文人の資本は紙と筆ばかりのように云う人があるが、文人は常に頭脳を肥やす滋養代に中々資本が要る。芝居を見るのもカフエへ行くのも、時としては最少し深入するのも矢張頭脳を豊かにする為めである。勿論、新らしい書籍は常に読まねばならない。偶像破壊の世の中でも古いものを全然棄てゝ了う事は出来ない。此費用だけ見積っても中々容易では無い。と云って少し頭脳の仕入れに油断すると、直ぐ時代に遅れて了う。文人は常に都会を離れる事は出来ない。一年都会を離れたら全く時代に遅れて地平線下に蹴落されて了う。文人の寿命は相撲と同じだと云うが、相撲よりも一層果敢ない。声名を維持するには常に頭脳を養うに努力しなけりゃならず、頭脳を養うには矢張資本の潤沢を要する。
▲文人は競馬の馬のようなものだ。常に美食していないと忽ち衰えて了う。が、馬の方は遊戯的に愛撫して千金を費して飼育するを惜まない金持があるが、人間の文人は時としては飼養者に噛付くので、千金の餌を与えて呉れるものが殆んど無い。
▲古来傑作は貧乏に生じたゆえ、文人は貧乏させて置くに限るという説がある。曲芸の動物は腹を減らせて置かないと芸をしないという筆法である。若し恁んな説が道理らしく主張されるなら我々は文人虐待防止会を起さねばならない。
▲近頃或る新聞が芸術税を提起した。其理由に曰く、同じ芸術家であり
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内田 魯庵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング