灰燼十万巻(丸善炎上の記)
内田魯庵
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)全然《さっぱり》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)古|葛籠《つづら》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「※」は「ぎょうにんべん+尚」、第3水準1−84−33、143−3]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)足がふら/\して
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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十二月十日、珍らしいポカ/\した散歩日和で、暢気に郊外でも※[#「※」は「ぎょうにんべん+尚」、第3水準1−84−33、143−3]※[#「※」は「ぎょうにんべん+羊」、第3水準1−84−32、143−3]《ぶらつ》きたくなる天気だったが、忌でも応でも約束した原稿期日が迫ってるので、朝飯も匆々に机に対った処へ、電報!
丸善から来た。朝っぱらから何の用事かと封を切って見ると、『ケサミセヤケタ。』
はて、解らん。何の事ッたろう。何度読直しても『今朝店焼けた』としか読めない。金城鉄壁ならざる丸善の店が焼けるに決して不思議は無い筈だが、今朝焼けるとも想像していないから、此簡単な仮名七字が全然《さっぱり》合点《のみこ》めなかった。
且此朝は四時半から目が覚めていた。火事があったら半鐘の音ぐらい聞えそうなもんだったが、出火の報鐘《しらせ》さえ聞かなかった。怎《ど》うして焼けたろう? 怎うしても焼けたとは思われない。
暗号ではないかとも思った。仮名が一字違ってやしないかとも思った。が、怎う読直しても、ケサミセヤケタ!
すると何となく、『焼けそうな家だった』という心持がして、急いで着のみ着のまゝの平生着《ふだんぎ》で飛出した。
呉服橋で電車を降りて店の近くへ来ると、ポンプの水が幾筋も流れてる中に、ホースが蛇のように蜒くっていた。其水溜の中にノンキらしい顔をした見物人が山のように集っていた。伊達巻の寝巻姿にハデなお召の羽織を引掛けた寝白粉の処班らな若い女がベチャクチャ喋べくっていた。煤だらけな顔をした耄碌頭巾の好い若い衆が気が抜けたように茫然《ぼんやり》立っていた。刺子姿の消火夫が忙がしそうに雑沓を縫って往ったり来たりしていた。
泥塗れのビショ濡れになってる夜具包や、古行李や古|葛籠《つづら》、焼焦だらけの畳の狼籍[#ママ]しているを横に見て、屋根も簷《のき》も焼け落ちて真黒に焼けた柱ばかりが立ってる洋物小売部の店[#以下の括弧内割注](当時の丸善の仮営業所は鍵の手になっていて、表通りと横町とに二個処の出入口があった。横町の店が洋物小売部であった。)の前を通って、無事に助かった海苔屋の角を廻って仮営業所の前へ出ると見物人は愈が上に集っていた。鳶人足がカン/\板囲を打付けている最中であった。丸善の店も隣りの洋服屋も表掛りが僅かに残ったゞけで、内部は煙が朦々と立罩めた中に焼落ちた材木が重なっていた。丸善は焼けて了った。夫までは半信半疑であったが、現在眼の前に昨日まで活動していた我が丸善が尽く灰となって了った無残な光景を見ると、今更のように何とも云い知れない一種の無常を感じた。
猶だ工事中の新築の角を折れて、仮に新築の一部に設けた受附へ行くと、狭い入口が見舞人で一杯になっていた。受附の盆の上には名刺が堆かく山をなしていた。誰を見ても気が立った顔をしている店員と眼や頤で会釈しつゝ奥へ行くと、思い/\に火鉢を央に陣取ってる群が其処にも此処にも団欒していた。みんなソワ/\して、沈着《おちつ》いてる顔は一人も無かった。且|各自《めいめい》が囲んでる火鉢は何処からか借りて来たと見えて、どれも皆看馴れないものばかりだ。小汚ない古椅子が五六脚あるぎり、思い/\に麦酒の箱や普請小屋の踏台に腰を掛け、中には始終腰を浮かして立ったり座ったりしていた。誰も皆気が立っていた。誰も皆ワサ/\していた。誰も皆ガチ/\していた。誰も皆元気付いてるようで何処か陰気な淋しい顔をしていた。
大抵は目眩るしいようにセカ/\往ったり来たりして、人と人とが衝突りそうだ。用あり気に俄に駈出したかと思うと、二タ足三足で復た戸《とま》ってボンヤリしているものもあった。元気に噪いで喋べり捲ってるかと思うと、笑声の下から歎息を吐《つ》くものもあった。空気が動揺していた。塵埃が舞っていた。焦臭い臭いが充満していた。
無難に持出した帳場デスクの前に重役連が集まっていた。何れも外套帽子のまゝの下駄がけであった。重役の一人の繃帯が誰の目にも着くので直ぐ訊かれるが、火事場の怪我で無いと聞くと誰も皆安心した顔をして、何の病気だと折返して訊くものも無かった。※[#「※」は「けものへん+胃」、第4水準2−80−43、151−1]鼠《はりねずみ》のような頭の□□は益々ガチ/\していたが、ガチ/\は同じ平生《いつも》のガチ/\であっても、其のガチ/\の底に陰気の音が籠っていた。総支配人は平日に無い靴を穿いていた。『△△さんの靴は初めて見た、』と暢気な観察をする小僮《こども》もあった。黒い髯で通る○○は露助然たる駱駝帽を被って薄荷パイプを横啣《よこぐわ》えの外套の衣兜《かくし》に両手を突込みの不得要領な顔をしていた。白い髯で通る社長老人は眼鏡越しに眼をパチ/\して、『私《わし》の家《とこ》へは店から火事だと電話が掛った。処が中途でプツリと切れたので、直ぐ二十八番を呼出そうとすると、丸善は今焼けてるという交換局の返事だから、そりゃ大変というので……』と、恰も一里も先きに火事があったように悠々閑々と咄していた。
只《と》見《み》ると、持出された書類函が重なって、中から帳簿が喰出《はみだ》していた。四方が真黒に焦げたカード箱が投出されてる傍には、赤く焼け爛れた金庫が防火の功名《てがら》を誇り顔していた。四隅が焦げたカードやルーズリーフや書類が堆かく一山になっていた。
『何時ごろ?』『四時半ごろ。』『火許は何処?』『富田のアイロン場。』――と、誰が誰に話すのか解らぬが其処此処で聞えた。中には百遍も繰返したものもあったろう。
話を綜合すると、
今暁四時半、隣家の富田洋服店の三階の火熨斗場《ひのしば》から発火して、一間と離れない丸善の二階へ直ぐ燃付いて、瞬く中に仮営業所の全部に火が廻って、到頭隣家の二三軒までも焼落ちて了った。此晩の丸善の宿直が揃いも揃って近視鏡を用ゆる三名、寄宿の小僮が十名。唯った之ぎりの人数だから、近所の取引先きや出入の職人の手伝いもあったが、火さきは早いし、手は廻らず、一番重要な書類を漸とこさ持出したゞけで、商品は殆んど全部が焼けて了ったという。
雑然喧然騒然紛然たる中に立って誰からとなく此咄を聞きつゝ何とも言い知れない感慨に堪えなかった。眇たる丸善の店は焼けようと焼けまいと社会に何の影響も与えまいが、此中に充積する商品は皆日本の文明に寄与する糧であった。戦争に勝っても日本の文明は猶だ欧米と比べものにならない今日、ラデュームやエレクトロンやプラグマチズムや将たイプセンやニーチェやトルストイの思想が学者間の談柄にのみ限られてる今日、欧米首都の外は地理的名称さえ猶だ碌々知られていない今日、自然主義を誨淫文学と見做し社会主義を売国論と敵視する今日、ロイテル電報よりも三面雑報の重大視される今日、滔々たる各方面の名士さえ学校時代の教科書たる論語とセルフヘルプの外には哲学も倫理もなきように思う今日、此の如く人文程度の低い日本では西欧知識の断片零楮も猶お頗る愛惜しなければならない。眇たる丸善の損害は何程でもなかろうが、其肆頭の書籍は世間の虚栄を増長せしむる錦繍|綾羅《りょうら》と違って、皆有用なる知識の糧、霊魂の糧である。金に換えたら幾何のものでなくても、其存在の効果は無際涯である無尽蔵である。此の焼けて灰となった書籍の一冊を読んで大発明をし、大文章を書き、大建築を作る人があったかも知れない。書籍は少くも五百部千部を印刷するゆえ、一冊や二冊焼けても夫程惜しくないと云う人があるかも知れぬが、日本のような外国書籍の供給が不十分な国では、一冊や二冊でも頗る大切である。且其の焼けた一冊が他日の大発明家、大文学家、乃至大建築家を作るべき機縁を持っていたかも解らない。何千部何万部刷ろうとも失われた一冊は日本文化に取っては一冊の世界的知識の損失であると、感慨一時に湧いて来たが、周囲の人声や履《げた》の音に忽ち消されて了った。
工事中の新築の階下へ行って見ると、材木や煉瓦やセメント樽を片寄せて炭火を焚いてる周囲に店員が集って、見舞物の握飯《むすび》や海苔巻を頬張ったり鯣《するめ》を焼いたりしていた。メリヤスの肌着《シャツ》と股引の上に外套を引掛けた焼出された宿直の一人が、富田の店員が三人屋根伝いに逃げて来て助けて呉れと云った顛末を語っていた。其傍に同じ焼出されの宿直が素綿入の寝巻に厚い駱駝の膝掛けを纏付けて、カン/\した炭火に当りながら茶碗酒を引掛けていた。
煤けた顔をして縄襷を掛けてるのや、チョッキ一つで泥だらけになってるのや、意気地の無いダラシの無い扮装《なり》をして足だけ泥にしているのや、テンヤワンヤの姿をした働き手が裏口から焼け跡へと出たり入ったりしていた。小僮が各自に焼残りの商品を持てるだけ抱えては後から後からと出て来た。
焼残りの書籍や文房具や洋物雑貨が塵溜のようにゴッタに積重ねられて隅々を塞げていた。其傍に無残に厚硝子を破《こわ》された飾棚が片足折れて横たに倒れそうに傾いていた。其中には銀細工やニッケル細工の小《こま》かい精巧なものが倒れたり破れたりして狼籍[#ママ]し、切子の美しい香水瓶が憐れに破われて煙臭い塵臭い中に床しいホワイトローズの香気を漾《ただよ》わしていた。銀の把柄《にぎり》の附いたステッキが薪のように一束となって其傍に投《ほう》り出されていた。
一方の片隅には肩掛や膝掛が焼焦だらけ水だらけになって一と山積んであった。中には自働車や馬車に乗る貴夫人の肩や膝に纏わるべき美しい織物もあった。
山高や中折や鳥打やフッドの何れも歪んだり潰れたり焦げたり水を被ったりしたのが一ト山積んであった。新流行のオリーブの中折の半分鍔を焼かれた上に泥塗れになってるのが転がっていた。滅茶々々に圧潰されたシルクハットが一段と悲惨《みじめ》さを添えていた。
其傍の鉋屑の中に、行末は誰が家の令嬢貴夫人の襟を飾ったかも知れない駝鳥ボアが水にショボ湿れてピシャ/\になっていたのが老いすがれた美人の衰えを見るように哀れであった。其外にも如何なる貴女紳士の春の粧いを凝らすの料ともなるべき粧飾品や化粧品が焦げたり泥塗れになったり破れたりしてそこらこゝらに狼籍[#ママ]散乱して、恰も平家の栄華の末路を偲ばせるような心地がした。
『どうです、洋物部の損害は?』と丁度居合わした半分真黒けな顔をした洋物部の主任に訊くと、
『全滅です、』と淋しげに笑った。
爰《ここ》を通って新築の裏口から賄い場へ抜けると、其先きは焼け跡であった。奥蔵の※[#「※」は「木へん+眉」、第3水準1−85−86、読みは「び」、155−1]間を焼灰の堆かい上を蹈んで、半分落ち掛ってる黒焦げの桁を潜ると、柱一本も残らぬ焼原であった。
朦々と白い煙の立罩めた中に柱や棟木が重なって倒れ、真黒或は半焦になった材木の下に積重なった書籍が原形のまゝ黒焦げとなって、風に煽られる度に焼けた頁をヒラ/\と飛ばしていた。其処此処の熱灰の中からは折々余燼がチラ/\と焔を上げて、彼地此所に眼を配る消火夫の水に濡れると忽ち白い煙を渦立たして噴き出した。満目唯惨憺として猛火の暴虐を語っていた。
焼けた材木を伝い、焼落ちた屋根の亜鉛板を踏んで、美術書の陳んでいた辺へ行くと、一列のフォリオ形の美術書が奇麗に頭を揃えて建てたなりに、丁度一本の棟木のように真黒けにソックリ其儘原形を残して焼けていた。
是等の美術書の大部
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