今朝店焼けた』としか読めない。金城鉄壁ならざる丸善の店が焼けるに決して不思議は無い筈だが、今朝焼けるとも想像していないから、此簡単な仮名七字が全然《さっぱり》合点《のみこ》めなかった。
且此朝は四時半から目が覚めていた。火事があったら半鐘の音ぐらい聞えそうなもんだったが、出火の報鐘《しらせ》さえ聞かなかった。怎《ど》うして焼けたろう? 怎うしても焼けたとは思われない。
暗号ではないかとも思った。仮名が一字違ってやしないかとも思った。が、怎う読直しても、ケサミセヤケタ!
すると何となく、『焼けそうな家だった』という心持がして、急いで着のみ着のまゝの平生着《ふだんぎ》で飛出した。
呉服橋で電車を降りて店の近くへ来ると、ポンプの水が幾筋も流れてる中に、ホースが蛇のように蜒くっていた。其水溜の中にノンキらしい顔をした見物人が山のように集っていた。伊達巻の寝巻姿にハデなお召の羽織を引掛けた寝白粉の処班らな若い女がベチャクチャ喋べくっていた。煤だらけな顔をした耄碌頭巾の好い若い衆が気が抜けたように茫然《ぼんやり》立っていた。刺子姿の消火夫が忙がしそうに雑沓を縫って往ったり来たりしていた。
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