トルストイもニーチェもワイニンゲルもストリンドベルグもハウプトマンもアンドレーフもアナトール・フランスも皆跡もなく猛火の餌食となって了った。近代的装釘技術の標本として屡々人に示したクレーマー出版の『ウェルタール・ウント・メンシハイト』の精巧細緻なレザーの模範的装釘も痕跡だになく亡び、此頃での大出版と云われる剣橋《ケンブリッジ》現代史も尚だ到着したばかりの十四冊物百数十部即ち凡そ二千冊が大抵灰燼となって、僅に残存した数十冊が表帋《ひょうし》は破れ周囲は焦げて惨澹たる猛火の名残を留めていた。
 眇たる丸善の損害は幾何でも無いが、一万三千余種八万巻の書冊は其数量に於てこそ堂々たる大図書館の十分一将た二十分一にも過ぎないが、其質に於ては大図書館にこそ及ばざれ、尋常普通の文庫に勝るものがあった。之を区々一商店の損失として金銭を以て算当すべきでは無かろう。
 古来焚書の厄は屡々歴史に散見する。殊にアレキサンドリアの文庫の滅亡は惨絶凄絶を極めて、永く後世をして転た浩嘆せしめる。近頃之を後人の仮作とする史家の説もあるが、聖経、詩賦、文章、歴史等古代の文献が尽く猛火の餌食となって焔々天を焦がし、尊いマニュスクリプトを焚いて風呂まで沸かしたというに到っては匹夫の手に果てたる英雄の最期を聞く如き感がある。一書肆の災を以て歴史上の大事件に比するは倫を失したもので聊か滑稽に類するかも知れないが、昨日までは金銀五彩の美くしいのを誇った書冊が目のあたりに灰となり泥となってるを見、現に千金を値いする大美術書を足下に踏まえてるを気が付くと、人世無常の感に堪えない。彼処には"Indian Archives"が炭のように焼けておる。此処にはロガンの"Journal of Indian Archipelago"が黒き灰文字となって僅かに面影を残しておる。見よ、心なき消火夫か泥草鞋もて蹂躙《ふみにじ》りつゝ行く方三尺の淡彩図を。嗚呼、是れシラギントワイトの『西蔵探険記』の挿図に非ず哉。五十年前初めて入蔵した此強胆なる学者の報告は芝居気満々たる山伏坊主の冒険小説に非ざる地理学上の大貢献であって、今日猶お東方研究の三墳五典として貴重されておる。此大著述も亦日本に幾何も存在しないだろうが、シカモ其の幾何も存在しない中の一部は此の如や半ば焼かれて此の如く泥草鞋に蹂躙られつゝある。嗚呼是れ何たる惨事であろう。
 此満目傷
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