いるのではないかと、わたしを責めたのであった。田添君の考え方からすれば、わたしは社会主義者であるのだから、たとい硬軟の別はあっても、田添君らと提携すべきであるのに、ただ友人として幸徳君らとはなはだ親密であるがために、アナキストと提携しているのは不都合だと言うのであった。
 しかしわたしとしては、幸徳君とは毎日毎晩、会えば必ず議論するというほどで、決して友情のために主義主張を曖昧《あいまい》にしてはいなかった。ただわたしとしては、できるだけ純真な○○的態度を維持せねばならぬと考え、それにはできるだけアナキストと提携を続けねばならぬと考え、議会政策に反対する理由はあっても、直接行動に反対する理由はないと考えていた。それでわたしはよくヂーツゲン(ディーツゲン)の言葉を引用して、社会主義と無政府主義の差異をできるだけ少なくすることに努め、社会主義はどこまでも無政府主義を包容していくべきだと考えていた。当時、直接行動派の元気な青年の中には、堺のおやじをなぐってしまえなどという者もあったそうだが、実際上、多くの人たちは社会主義と無政府主義の合いの子であった。山川君などもよほどヂーツゲン張りで、裁判所で「社会主義か無政府主義か」と聞かれた時、「もし無政府主義が社会主義と別のものであるなら、自分は無政府主義者ではないが、自分は社会主義と無政府主義とを同じものと信じているから、その意味において無政府主義者と言われてもかまわない」と言ったような答えをしたかと覚えている。
 そこで再び赤旗事件当日のことに立ちもどる。わたしは山川君とふたり、錦町の警察に連れて行かれてみると、そこの留置場にはすでに大杉、荒畑、森岡、百瀬、村木、宇都宮、佐藤などの猛者《もさ》が来ており、外に神川、管野、小暮、大須賀などの婦人連も来ていた。留置場は三室あって、それが廊下を中心にして向かい合っていた。わたしの室にはわたしと外にだれか一人、隣の室には婦人連、そして向かい側の大部屋にはその他の大勢という割当てであったが、その大部屋はまるで動物園のおりよろしくで、皆が鉄ごうしにつかまって怒鳴る、わめく、笑いくずれるの大騒ぎであった。巡査の態度があんまりむちゃなので、みなとうとうこうしの中からつばを吐きかけることをもって唯一の戦闘手段とした。どうしたイキサツからであったか、大杉君はとうとう廊下に引っ張り出されて、さんざん
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