未決監で聞いて大いに心配した。心配したのは、佐藤君の刑期が二つ重なってたいへん永くなるということばかりでなく、実際その責任者が佐藤君であるかどうかが不分明であったからである。佐藤君はそのことにつき、未決監の中で、今一人のある男と、いろいろ言い争っていた。我々はそれを聞いて判断しかねていた。しかし裁判は決定して、佐藤君は不敬罪の方でも有罪となり、我々はみな一緒に千葉に送られた。ところで我々の問題が起こった。佐藤君は冤罪《えんざい》を着ているのではないか。もしそうだとすれば、今一人の男がけしからぬ。我々の多数はついに今一人の男を有罪と認め、それに絶交を申し渡した。我々はみな独房であったけれども、それが隣り合ったり、向かいあったりしているので、それにまた、運動や入浴の時など一緒に出されるので、ちょいちょい内証話をすることはできたのである。その時、わたしとしては、やはり今一人の男を疑ってはいたのだけれども、充分確かな証拠があるわけではなし、それを獄中で絶交するのはあまりひどいと考え、わたしだけはその絶交に加わらなかった。
この赤旗事件の時、幸徳君は郷里(土佐中村)に帰っていた。彼はほどなく上京してあとの運動を収拾しようとした。しかし形勢は大いに変化していた。同年七月、西園寺(さいおんじ)内閣が倒れて桂内閣がそれに代わった。西園寺内閣の倒れた原因の一つは、社会主義を寛容し過ぎて、ついに赤旗事件まで起こさせたという非難であったという。したがって桂新内閣の反動ぶりは盛んなものであった。そこで一方には赤旗事件で金曜会の連中が一掃され、一方にはまた、電車問題の凶徒|聚《しゅう》衆事件が確定して、西川、山口等、多くの同志が投獄され、その他の人々は手も足も出しようがなく、運動は全く頓挫《とんざ》の姿を呈した。幸徳君はこの形成の下にあって、ますますその無政府主義的態度を鮮明にし、ますます極端に走って行った。そして明治四三年九月、わたしが出獄した時にはすでにいわゆる大逆事件が起こっていた。
[#地付き](昭和二年六月太陽臨時号所載)
底本:「堺利彦全集 第三巻」法律文化社
1970(昭和45)年9月30日発行
入力:もりみつじゅんじ
校正:染川隆俊
2002年10月7日作成
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