け花などという物に対しては、母はほとんど何の感興をも持っていなかったようだが、山や川などに対しては、「おおええ景色じゃなア」などと、覚えず感嘆の叫びを発したりすることがあった。そして、私は、母の感嘆の叫びに依って、自分の目が開いたような気がしていた。
 母はまた、すこしばかり和歌をやっていた。これはただ、里方における周囲から自然に養われたことで、母にそういう才能があったとは思われない。しかし、父の俳句と、母の和歌とが、私の家庭における一つの面白い対立であった。ある時など、母が俳諧味の取りとめなきを指摘すると、父は和歌に面白味のないことを非難するという、文芸的論争が起ったことがある。
 それから父は、俳諧の歌仙(つけあい)の実例を挙げて、その幽《かす》かな心持や面白味を懇々と説き立てたが、母にはとうとう何のことやら分らなかったらしい。お蔭で私には初めて少し「つけあい」というものの味わいが分った。しかしまたこういうこともあった。維新の際、小倉藩の志士|何某《なにがし》が京都で詠んだという和歌に、「幾十度《いくそたび》加茂の川瀬にさらすとも、柳は元の緑なりけり」というのがあった。ところが和歌
前へ 次へ
全13ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堺 利彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング