に記す通り)仏教に対してはあまり同情を持たなかったが、母の故を以て観音様は少し好きだった。
 今一つ母についての思い出。これはよほどまだ私の小さい時のこと。私が炬燵の中で――母と私とが一緒に寝る広い寝床の中で――目をさますと、母は既に起き出でて竈《くど》の前で飯を炊いていた。私が何か言うと、「起きたかな、お目ざましをあぎょう」と言って母は竈《くど》の熱灰《あつばい》の中に埋めておいた朝鮮芋を取りだして、その皮をむいて持って来てくれた。黄色い美しい芋の肉から白い湯気がポカポカと立っていた。どうして、こんな光景が、特に私の記憶に残っているのか分らないが、恐らくその蒸し焼の芋の味が特別にうまかったのだろう。
 今一つ、これは私が母に対する唯一の反感。ある時、私が何かのことで、さんざん母にグズっていた。母も大ぶん怒って私を叱っていた。すると、母はちょうどお膳ごしらえをしていたのだが、とつぜん醤油つぎを引っくりかえした。赤黒い醤油がたくさん畳の上にこぼれた。母は慌ててそれをツケギで掬《すく》い取るやら、そのあとを雑巾《ぞうきん》で拭くやら(恐らく父に内証にするため、大急ぎで)していたが、「こんなことになるのも、お前があんまり言うことを聞かんからじゃ」とまた私を叱りつけた。私は非常に不平だった。私が言うことを聞かんのは悪いだろう。しかし、醤油つぎを引っくりかえしたのはまさに母のそそう[#「そそう」に傍点]である。自分のそそう[#「そそう」に傍点]の責任を私に塗りつけるのはひどい。私はそんな意味で大いに憤慨した。我が尊信する母、我が敬愛する母といえども、腹立ちまぎれには、やっぱりこんなことを言うのかと。
 考えて見るに、私は父と母とから、ちょうど半々ずつくらい性質を遺伝したらしい。体質の方では、父も小さいし、母も小さいし、そして私も小さいのだから、文句はない。しかし、私が小さいながらやや頑丈な処があるのは、母の方から来たのかとも思う。母は強いという方ではなかったが、母の弟たる「志津野のおじさん」などは、ずいぶん大きな、しっかりした体格であった。性質の方では、私に多少の才気があるのは父の方から来たのであり、幾らか学問好きで、そして少しゆっくりしたようなところがあるのは、母の方から来たのだと思われる。私は大体において善良な正直な男だと信じているが、それはまさに父母両方から来ている。もし私に、けちくさい、気の小さい、小事にアクセクするというところが著しく現われているとするなら、それは父の方からの欠点である。もしまた私に、不器用な、不活溌な、優柔不断なところが大いに存在しているとするならば、それは母の方からの弱点である。
 母の家には昔大きな蜜柑の木があったが、その蜜柑が熟する頃になると、母の父(即ち私の祖父)は、近処の子供を大ぜい集めて、自分は蜜柑の木の上に登って、そこから蜜柑をちぎっては投げ、ちぎっては投げ、そして子供が喜ぶのを見て面白がっていた。私はそんな話を、花咲爺の昔話と同じように聞いていたのだが、またどこやらにただの昔話とは違って、自分の祖父にそんな面白い人があったという誇りを感ずる点があったように思う。
 父方の祖父については、私は何の知るところもない。思うにそれは、祖父が早く死んだので、幾許《いくばく》も父の記憶に残っていなかったためだろう。父方の祖母はかなりシッカリした婦人であったらしい。早く夫に別れて、年の行かぬ二人の子供を守《も》り立てて行ったのは、容易なことでなかったろう。その頃、江戸に行っていた私の父に対して、国元の祖母から送った手紙が一通、私の手に残っているが、その筆跡もなかなか達者だし、文句もずいぶんシッカリしている。また、祖母の妹(私の父の叔母《おば》、私の大叔母)は、私もよく知っていたが、これがなかなかただの女でなかった。変屈者《へんくつもの》、やかまし屋として、あちこちで邪魔にされた場合もあったようだが、私から見ると、ずいぶん面白いところのある、よいおばさんであった。この人が大阪から私の父によこした手紙が残っているが、「黄粉が食いとうても臼がのうてひけぬ、今度来るなら臼を持って来ておくれ、うんちんはおれが出す」と言った調子である。明治二十二年に、八十に近いお婆さんが、大胆な言文一致体で手紙を書いていたのである。これらのことも、私に取っては確かに多少の誇りであった。



底本:「日本の名随筆42 母」作品社
   1986(昭和61)年4月25日第1刷発行
   1988(昭和63)年1月20日第5刷発行
底本の親本:「堺利彦伝」中公文庫、中央公論社
   1978(昭和53)年4月
入力:もりみつじゅんじ
校正:菅野朋子
2000年6月1日公開
2005年6月24日修正
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