の先生は、上の句の「とも」に対して、下の句の結びは「なるらん」でなければ法に合わぬと言って、さように添削したが、作者自身としては、たとい将来のこととは言え、少しも疑いのない堅い決心であるから、「なるらん」などという生ぬるい言葉はいさぎよくないと言って、あくまで「なりけり」を固持していた。父と母とがこの話をしあった時、二人の意見は全く一致して深く作者の意見に同感していた。
 父と母とが面白くない(と言うよりはむしろ滑稽な)言い争いをしていたのを一つ覚えている。母も煙草が好きで、よく長煙管《ながぎせる》でスパスパやっていたが、例の不器用なたち[#「たち」に傍点]として、その火皿に刻みを詰める時、指先でそれを丸めることが足りないので、長い刻みの尾が煙管の先にぶらさがっていることが毎度であった。ある時、父はそれを見るに堪えなかったのだろう、いかにも憎々しそうな、噛んで吐き出すような口調で、そのだらしなさを罵倒した。すると母もムッとして、それが自分の生れつきであること、五十年来の習慣であること、今さらそれを非難されても仕方のないことなどを、すねた言葉でブツブツと返答した。この争いに対しては、私は子供心にも、深く両方に同情した。
 ある年の春、つつじの花の盛りの頃、裏の山の裾にござ[#「ござ」に傍点]を敷いて、そこに夕めしのお膳を持ちだし、母の自慢のえんどうまま[#「えんどうまま」に傍点]で、父は例の一合を楽しみつつ、つつじ見の小宴を催したことがある。それらは父がアジをやるのであるか、それとも母の思いつきであったのか知らないが、とにかく私には嬉しい一家の親しみであった。また、父と母とは、ジャモクエの年寄り夫婦にも似ず――あるいは無邪気な年寄り夫婦らしくと言った方が却っていいかも知れぬが――ある時など、木箱に竹の棒を突きさして、それに紙を張り、糸をつけて、三味線のおもちゃを拵えて見たりしていた。しかしそのおもちゃでは満足が出来なかったと見えて、後にはお隣りから本物を借りて来て、二人でツンツン言わせていたこともある。その歌、「高い山から谷底見れば」「摺り鉢を伏せて眺めりゃ三国一の」などはあえて奇とするに足りないが、「芝になりたや箱根の芝に、諸国諸大名の敷き芝に、ノンノコセイセイ」「コチャエ、コチャエは今はやる、若《わか》い衆《しゅ》が、提灯《ちょうちん》雪駄《せった》でうとてゆく」などの古色に至っては、けだし読者の一粲《いっさん》を博するに足りるだろう。
 母は滅多に外出しなかったので、たまに前の山に千振《せんぶり》摘《つ》みなどに行く時、私らはそれを大変な珍しいことのようにして、そのあとについて行った。母は千振を摘んでは蔭干しにしておいて、毎朝それを茶の中に振りだして飲むのであった。千べん振ってもまだ苦いと言うのが恐らくその名の出処であろう。私もいつかその真似をして、あの苦い味わいを、何か少し尊い物のように思っていた。後に私が人生のある事件を批評する時、「苦底の甘味」という言葉を用いたことがあるが、それは千振の味に思い寄せたのであった。また千振という草のツイツイと立っている姿、あのささやかな白い花の形などが、何とも言われぬしおら[#「しおら」に傍点]しさを私に感じさせた。そして、それも恐らく、母から開かせられた目の働きであったろうと思う。
 ある日、母が珍しく裏の山にナバ(茸《きのこ》)を取りに出た。兄と私とが嬉しがってその前後に飛びまわった。すると猫も跡からやって来て、手柄顔に高い松の木に駈けあがったりした。「猫までが子供と一しょに湧きあがる!」と、母は面白そうにその姿を眺めていた。湧きあがるとは、いい気になってふざけ散らすと言ったような意味。私は、前にも言った通り、母に教えられて大の猫好きであったが、母が毎度話して聞かせたところに依ると、私の幼い頃、キジという猫がいて、それが若様に対する老僕と言ったような格で、一度私の手にかかると、まるで死んだようになって、叩かれようと、攫《つか》まれようと、引きずられようと、自由自在になっていた。しかし次の猫は、それほどのおもちゃにならなかった。彼は冬になると、私の寝床で寝るよりも、母の寝床に寝ることを選んだ。けれども、私が是非とも彼を抱いて寝ることを主張するので、母はいつも、彼を連れて来て私の寝床に入れて、蒲団の外から叩きつけるのであった。すると彼も往生して、私の寝入るまで、ジットそこで我慢し、あとでソウット母の方に行くのであった。
 母はまた、観音様信仰で、毎晩お灯明をあげては、口の中で観音経か何かを誦《ず》しながら拝んでいた。そして毎月十七日の晩には、必ず錦町の観音堂に参った。私も必ずそのお供をした。その晩、観音堂では、三十三体の観音様に一々灯明を供えて、いかにも有難そうに見えていた。私は、(後
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