などの古色に至っては、けだし読者の一粲《いっさん》を博するに足りるだろう。
母は滅多に外出しなかったので、たまに前の山に千振《せんぶり》摘《つ》みなどに行く時、私らはそれを大変な珍しいことのようにして、そのあとについて行った。母は千振を摘んでは蔭干しにしておいて、毎朝それを茶の中に振りだして飲むのであった。千べん振ってもまだ苦いと言うのが恐らくその名の出処であろう。私もいつかその真似をして、あの苦い味わいを、何か少し尊い物のように思っていた。後に私が人生のある事件を批評する時、「苦底の甘味」という言葉を用いたことがあるが、それは千振の味に思い寄せたのであった。また千振という草のツイツイと立っている姿、あのささやかな白い花の形などが、何とも言われぬしおら[#「しおら」に傍点]しさを私に感じさせた。そして、それも恐らく、母から開かせられた目の働きであったろうと思う。
ある日、母が珍しく裏の山にナバ(茸《きのこ》)を取りに出た。兄と私とが嬉しがってその前後に飛びまわった。すると猫も跡からやって来て、手柄顔に高い松の木に駈けあがったりした。「猫までが子供と一しょに湧きあがる!」と、母は面白そうにその姿を眺めていた。湧きあがるとは、いい気になってふざけ散らすと言ったような意味。私は、前にも言った通り、母に教えられて大の猫好きであったが、母が毎度話して聞かせたところに依ると、私の幼い頃、キジという猫がいて、それが若様に対する老僕と言ったような格で、一度私の手にかかると、まるで死んだようになって、叩かれようと、攫《つか》まれようと、引きずられようと、自由自在になっていた。しかし次の猫は、それほどのおもちゃにならなかった。彼は冬になると、私の寝床で寝るよりも、母の寝床に寝ることを選んだ。けれども、私が是非とも彼を抱いて寝ることを主張するので、母はいつも、彼を連れて来て私の寝床に入れて、蒲団の外から叩きつけるのであった。すると彼も往生して、私の寝入るまで、ジットそこで我慢し、あとでソウット母の方に行くのであった。
母はまた、観音様信仰で、毎晩お灯明をあげては、口の中で観音経か何かを誦《ず》しながら拝んでいた。そして毎月十七日の晩には、必ず錦町の観音堂に参った。私も必ずそのお供をした。その晩、観音堂では、三十三体の観音様に一々灯明を供えて、いかにも有難そうに見えていた。私は、(後
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