ては、ある時、意外なことで叱られたことがある。それは私より二つばかり年上の、少し裕福な家の友達が詩を作っているのを見て、私も真似したくなって、たしかそれに関する雑誌が買いたいとか何とか言いだしたところが、そんなことを見習うほどなら、あんな友達とつきあうのをやめてしまえと、さんざんにきめつけられた。私としては、金がないから買ってやれぬと言われるのなら、少しも不平など起さぬつもりであったが、友達とつきあうなと言われたのが不平で堪らなかった。しかし父はその後、東京に行っている兄の処に言ってやって、『作詩自在』という小さい本を取寄せてくれた。私はまた、その事件のつづきであったかどうかは忘れたが、その頃、父から横面を平手で烈しくぶたれたことがある。私がよほど悪《あく》たれたことでも言ったからであろうが、私としては、悔しくて悔しくて、ずいぶん永いあいだ泣いたように思う。そして一生涯、その不愉快の感じが幾らか残っていた。
 また、私は父に対してこういう滑稽な不平も持っていた。私は犬が好きで、途中で犬に会うと、口笛を吹いてやったり、頭を撫でてやったりして、仲好しになってしまう。そして結局、内まで連れて帰って来る。ところが、せっかく内までついて来た奴に対して、何らの愛嬌をすることが私に出来ない。私はそれらが堪らんほどつらい。私としては、餅の一|片《きれ》なり、飯の一塊まりなり食わせてやりたい。しかしそれは父から禁じられていた。そんな癖をつけると、いつかその犬が内の犬になってしもうて困る、と言うのであった。貧乏士族の生活としては、犬一|疋《ぴき》の食い料も問題であったに相違ない。だから私も勿論、犬を飼おうとは言わない。また必ずしも毎度飯をやろうとは言わない。そこで私は父と協定して、犬のお客のあった時には糠《ぬか》を一にぎりだけやることにしていた。ところが、それすらも父はあまり喜ばなかった。思うに父は、糠一にぎりを惜しんだわけではなく、犬の愛に溺れそうな傾きのある私の性情を危ぶんだのだろう。しかし父も、毎晩の食事時に必ずやって来る習慣になっていた隣家の犬に対しては、黒、黒と言って、鰯の頭など投げやっていた。
 しかし私はまた、深く父の寛大に感じていることがある。ある時、私の家に東京の親類から「鶴の子」という結構な菓子の箱が送られて来た。一つだけ貰って食った時、おそろしくうまかった。その後も欲しくて堪らないが、なかなか貰えない。あんな結構な物をムザムザ食うものではないと言って、父はそれを部屋の高い棚に上げてしまった。それから幾日たった後のことか知らんが、父も母もどこかに行って、私ひとり内にいた。フト悪心を起して、踏台を持って来て棚の上の鶴の子を取った。勿論たった一つだった。露見するかどうかと窺《うかが》っていたが、誰も何とも言わない。そうこうする中に、また機会があって一つ取った。とうとう三つ取り、四つ取り、五つ取った。もういよいよ露見しないはずがない。幾ら年寄りがぼんやりでも、五つも不足してるのに気のつかんはずがない。困った、困ったと思いながら、また幾日も幾日も過ぎたが遂に誰も何とも言わなかった。結局、そのことはそれきりで、年寄りなどという者は随分馬鹿な者だくらいに考えていた。そして、ズット後になって、私が自分の浅はかさに思い当って、今さら冷たい汗を流したのは、父も母も亡くなってしまってからのことだった。
 今一つ、私は父の机の抽出しから一円紙幣を盗んだことがある。その頃の一円は少なくとも今の十円の値打ちがあった。子供としては大金であった。私はすぐにそれを持って町に行き、新店《しんみせ》という店で、唐紙《とうし》と白紙をたくさん買った。たくさんと言っても五銭か十銭かだったろう。そして釣がないからと言うので、代は払わずに帰った。唐紙と白紙を買ったのは、その頃、少し文人風の書画の真似をやりかけていたからであった。ところが二、三日後のある日、母が私を連れて屋敷内を歩いていた。何か母が私に言いたいことがあるのだと直感された。私は非常におそろしくなった。しかし母の態度は平生よりも柔《やさ》しかった。竹藪の片わきの、梨の木の下に来た時、母はいよいよ口を切った。「利《とし》さん、ひょっとお前は――」サア来たと私は思った。しかし母は非常に柔しく、非常に遠慮がちに「ひょっと」「ひょっと」を繰返して、そうならそうで仕方がない、決して叱りはせぬから、とにかく素直にそれを出してくれと言った。私は非常な慚愧《ざんき》を感じて、一も二もなく兜《かぶと》をぬいだ。父はそれについて、遂に一言も言わなかった。
 ついでに今一つ私の盗みを書きつけておく。その頃、錦町《にしきまち》のある小間物店で、私は人のそばで遊んでいるようなふりをして、柄のついた小さい虫眼鏡を一つ盗み取った。それを通
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