黷ホまたわが家が妙に珍しく感じられる。門より庭に入りて立てば、木々の緑が滴るばかりに濃く見えるのだもの。
予の病妻は予の好める豆飯を炊いて待っていた。予は彼の如何に痩せたるかを見たる後、靴を脱せずして直ちに秋水を訪うた。秋水は、病床に半ば身を起して予の手を握った。彼は予の妻とともに甚だしく痩せていた。
歌のようなものが一首できていた。
いつしかに桐の花咲き花散りて葉かげ涼しくわれ獄を出ず
監獄の中で風情のある木は桐ばかりであったから。
一九 出獄当座の日記
六月二十日 出獄。終日家居、客とともに語りかつ食う。
二十一日 出社。社中諸君が多忙を極めている間に、予一人だけ茫然として少しも仕事が手につかず。
二十二日 同上。
二十三日 編輯終る。予は少々腹工合を悪くした。
二十四日 腹工合甚だ変也
二十五日 とうとう下痢をやりだした、よほど注意はしていたのだが。午後下剤を飲み、夜に入りて十数回の下痢があった。
二十六日 せっかくの出獄歓迎園遊会に出席はしたが、何分疲労が、甚だしいので、写真を取ったあとですぐに帰宅した。
二十七日 秋水の家に風がよく通すので、午後半日をそこで暮した。二個の病客が床を敷き並べて相顧みて憮然たるところ百穂君か芋銭君かに写してもらいたいような心地がした。
二十八日 ようやく下痢がとまった。粥を食い、刺身を食い、湯に入る、甚だ愉快。
(附) 園 遊 会 の 記
六月二十六日午前九時より堺生[#底本は「塀生」と誤植]の出獄歓迎を兼ねて園遊会が開かれた。……場所は、角筈十二社の池畔桜林亭である。……幸いに曇天で、……来会者は男女合せて百五十余名の多きに達した。……安部磯雄氏発起人総代として開会の趣旨を述べ、その中に「本日の会合はもとより堺氏出獄の歓迎を兼ねてでありますが、実をいえば、牢にはいるということは社会主義者にとりては普通のことでありますから、もしわが党の士のなかに出獄者あるごとに歓迎会を開くこととすれば、今後何百回ここで歓迎会を開かなければならぬかも知れぬ。で、私は今日の会も堺氏の出獄を期して、われら同志友人がここに一日の園遊会を開いたという風に思い」たいと語った。……
(発起人の一人)
(安部氏のこの意見は、当時としては、誠によく見透しのついた、適切な警告であった。――堺生)
[#地より2字上がり](一九一一年三月「楽天囚人」より)
底本:「日本プロレタリア文学大系(序)」三一書房
1955(昭和30)年3月31日初版発行
1961(昭和36)年6月20日第2刷
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2001年12月27日公開
2002年1月24日修正
※誤植の確認には、「堺利彦全集 第三巻」法律文化社、1970(昭和45)年9月30日発行を用いました。
青空文庫ファイル:
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