られたことである。もっとも眼鏡がなくてはなんにも見えぬというほどでもないが、十一度ばかりの近眼で、十余来年寝るときのほか、かってはずしたことのない最親最愛の眼鏡であるから、いま忽然とそれと別れた不愉快は非常である。すぐあとで下げ渡してやるといわれた言葉を楽しみにしていたが、二三日たってヤット眼鏡下付願という手続ができた。モウ占めたと楽しんでいると、また二三日してやっと医者の視力検査があった。モウいよいよだと思うていると、また二三日してようやくのことで下げ渡された。
 親子再会とでもいうべき情合で、ただ何となく嬉しく心にぎやかで、かけて見たりはずして見たり、息を吹きかけて拭いて見たりしているうち、どうも少し右の玉のゆがんでいるのが気に食わぬ。隣の人にもそれを見せて、ここを少しコウ曲げて、などといいながら、こわごわ撓めているとき、脆や、ポキリとまんなかの金が折れた。サアしまった! こんな弱ったことはない。「見しやそれとも分かぬ間に、雲かくれにし夜半の月」「たまたま会いは会いながら、つれない嵐に吹きわけられ」失望落胆、真にたとえるにものがなかった。茶碗の破れたのすらつぎあわせて見るのが人情だから、いろいろとやっては見たが、金と金とのつぎ目の折れたのは、指先ばかりではどうにも仕様がない。それでも何とか法のないものかと、様々にいじっているうち、これを糸で結びつけてはという智慧が出た。それから着物の裾のシツケ糸をぬいて、それを二重によりあわせて、ともかくも結びつけた。鼻の上にかけてみると少々工合は変だけれど、物を見るに差支えはない。ああ真にこれで助かった!
 眼鏡の待遠かったよりも、更に一層待遠かったのは書籍であった。初日、二日目、三日目、ようやく落つくと同時に退屈する。欲しいほしいはただ書籍である。書籍は教誨師先生よしよしと受込んだきりで容易に運んでくれぬ。一週間あまりすぎてからヤット二冊だけ渡された。
 書籍は同時に二冊以上は見せぬという定めだそうな。役のある人ならば、日曜のほかには一日に一二時間しか読書の暇はないのだから、二冊という制限もよいか知らぬが、朝から晩まで本ばかり読む人に、タッタ二冊とは情ない。
 しかしマア二冊にせよ本は来たし、こわれたにせよ眼鏡はある。モウ千人力だという心地がした。二冊の本は、
  Hyndman : Economics of Sociali
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