さん、[#「、」は底本では脱落]大森さん、川崎さん、おあがんなさいよ。」(これは自分達が赤い着物を着て格子の前に坐っているところから、自分達を女郎に見立ててのざれ言)
「ヘイ、今日はよろし、魚源でござい、お肴は鯛に鰈に鮪の切身。」「ああそれじゃあ鯛を貰いましょう。片身おろしてお刺身にして下さい。しかし新しいかね、肴屋さん。」(これは後の障子と流し元の工合が、サモ台所口に似ているからの洒落)
「ああいい天気だな、今日はどこぞ遊びに行こうか。」「そうさなァ、上野から浅草にでも出かけようか。」「だが遠方に行くのは大儀だな。それよりかやっぱりあの桐の木の下でも散歩しようか。」「そうさ、それもいいな。じゃマア今日は出かけるのはよそう。」(これは午後の運動の事をいったので、後にわかる)
「あなた今夜のお菜は何にしましょう。」「なんぞサッパリしたものがいいなァ。」「じゃァやっぱりいつもの沢庵と胡麻塩にしておきましょうね。」
「ああ天ぷらが食いたい。」「おれはタッタ一つでいいから餅菓子が食いたい。」「何も贅沢はいわないが、湯豆腐か何かで二三杯やりたい。」
「これで碁盤の一つもあれば別に退屈はしないがなァ。」「そしてチョイとビールの一本も出て来るとなァ。」「そして林檎かビスケットでもあるとなァ」「そしてお一つ召しあがれなとか何とかいって美しいのが一人も現われて来りゃ申し分なしだろう。」「ハハハハハ、どこまで贅沢をいうか知れたものじゃない。」
 こんな馬鹿なことをいっているうちに昼飯になる。昼の菜の当てッこをしたり、昼の菜の一覧表をつくったり、そんなことも消閑の一策になっている。昼飯は十一時で、天気がよければ十一時半から十二時まで運動がある。これは定役のない者、および監房にて役を執る者に限るので、工場に出て役を執る者には許されぬ。
 運動は監の周囲にある桐の木の下だの、小松原の芝の上だのを歩くので、やっぱり厳重なる監督の下に、一列になってグルグルまわるのだが、それでも話のできぬことはなし、おりおりは立止って蟻の戦争など見物することもある。何にせよ運動は一日中の一大愉快で、雨の三日もつづいた揚句は殊にそうだ。
 運動後はまた、馬鹿話やらいねむりやらで夕方になる。「もう何時だろう」「今の看守の交代が四時半だろう」「じゃあモウ三十分で飯だ」などという問答は、たいがい毎日同じように繰返される。
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