潜つて動かず。

 十一月八日。
 誘ひつ誘はれつする心はとう/\二人を先日わたしと中村君と昼食した市場といふ原中の一軒家まで連れて行つた。其処で愈々お別れだと土間に切られた大きな炉に草鞋を踏み込んで盃を取らうとすると不図其処の壁に見ごとな雉子が一羽かけられてあるのを見出した。これを料理して貰へまいかと言へば承知したといふ。其処へ先日から評判の美しい娘が出て来て、それだつたら二階へお上りなさいませといふ。両個相苦笑して草鞋をぬぐ。
 いつの間にやら夜になつてゐた。初めちよい/\顔を見せてゐた娘は来ずなり、代つてその親爺といふのが徳利を持つて来た。そして北海道の監獄部屋がどうの、ピストルや匕首が斯うのといふ話を独りでして降りて行つた。小半日、ぐづぐづして終に泊り込んだ我等をそれで天晴れ威嚇したつもりであつたのかも知れない。
 二階は十六畳位ゐも敷けるがらんどうな部屋であつた。年々馬の市が此処の原に立つので、そのためのこの一軒家であるらしい。

 十一月九日。
 早暁、手を握つて別れる。彼は坂を降つて里の方へ、わたしは荒野の中を山の方へ、久しぶりに一人となつて踏む草鞋の下には二寸三寸高さの霜柱が音を立てつつ崩れて行つた。
 また久し振の快晴、僅か四五日のことであつたに八ヶ嶽には早やとつぷりと雪が来てゐた。野から仰ぐ遠くの空にはまだ幾つかの山々が同じく白々と聳えてゐた。踏み辿る野辺山が原の冬ざれも今日のわたしには何となく親しかつた。
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野末なる山に雪見ゆ冬枯の荒野を越ゆと打ち出でて来れば
大空の深きもなかに聳えたる峰の高きに雪降りにけり
高山に白雪降れりいつかしき冬の姿を今日よりぞ見む
わが行くや見る限りなるすすき野の霜に枯れ伏し真白き野辺を
はりはりとわが踏み裂くやうちわたす枯野がなかの路の氷を
野のなかの路は氷りて行きがたし傍への芝の霜を踏みゆく
枯れて立つ野辺のすすきに結べるは氷にまがふあららけき霜
わが袖の触れつつ落つる路ばたの薄の霜は音立てにけり
草は枯れ木に残る葉の影もなき冬野が原を行くは寂しも
八ヶ嶽峰のとがりの八つに裂けてあらはに立てる八ヶ嶽の山
昨日見つ今日もひねもす見つつ行かむ枯野がはての八ヶ嶽の山
冬空の澄みぬるもとに八つに裂けて峰低くならぶ八ヶ嶽の山
見よ下にはるかに見えて流れたる千曲の川ぞ音も聞えぬ
入り行かむ千曲の川のみなかみの峰仰ぎ見ればはるけかりけり
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 おもうて来た千曲川上流の渓谷はさほどでなかつたが、それを中に置いて見る四方寒山の眺望は意外によかつた。
 大深山村附近雑詠。
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ゆきゆけどいまだ迫らぬこの谷の峡間《はざま》の紅葉時過ぎにけり
この谷の峡間を広み見えてをる四方の峰々冬寂びにけり
岩山のいただきかけてあらはなる冬のすがたぞ親しかりける
泥草鞋踏み入れて其処に酒をわかすこの国の囲炉裏なつかしきかな
とろとろと榾火《ほだび》燃えつつわが寒き草鞋の泥の乾き来るなり
居酒屋の榾火のけむり出でてゆく軒端に冬の山晴れて見ゆ
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 とある居酒屋で梓山村に帰りがけの爺さんと一緒になり、共にこの渓谷のつめの部落梓山村に入つた。そして明日はこの爺さんに案内を頼んで十文字峠を越ゆることになつた。
 此処の宿屋でまた例の役人連中と落合ふことになつた。ひとの食事をとつてゐる炬燵にまで這入つて来て足を投げ出す傍若無人の振舞に耐へかねて、膳の出たばかりであつたが、わたしはその宿を出た。そして先刻知り合ひになつた爺さんのうちにでも泊めて貰はうとその家を訪ねた。爺さんはまだ夕闇の庭で働いてゐた。見るからに荒れすたれた家で、とても一泊を頼むわけに行きさうにもなかつた。当惑しながら、ほかにもう宿屋は無からうかと訊くと、木賃宿ならあるといふ。結構、何処ですといふと爺さんが案内して呉れた。木賃宿とは云つても古びた堂々たる造りで、三部屋ばかり続いた一番奥の間に通された。
 煤びた、広い部屋であつた。先ず炬燵が出来、ランプが点り、膳が出、徳利が出た。が何かなしに寒さが背すぢを伝うて離れなかつた。二間ほど向うの台所の囲炉裡端でもそろ/\夕飯が始まるらしく、家族が揃つて、大賑かである。わたしはとう/\自分のお膳を持つてその焚火に明るい囲炉裡ばたまで出かけて仲間に入つた。
 最初来た時から気のついてゐた事であつたが、此処では普通の厩でなく、馬を屋内の土間に飼つてゐるのであつた。津軽でもさうした事を見た、余程この村も寒さが強いのであろうと二疋並んでこちらを向いてゐる愛らしい馬の眼を眺めながら、案外に楽しい夕餉を終つた。家の造り具合、馬の二疋ゐる所、村でも旧家で工面のいゝ家らしく、家人たちも子供までみな卑しくなかつた。

 十一月十日。
 満天の星である
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