ませう、だが今起きたばかりで、それに御覽の通り私一人しかゐないのでこれから直ぐ出かけるといふわけに行かぬ、追つ附け娘たちが麓から登つて來るから、そしたら早速行つて聞合せませう、まア旦那はそれまで其處らに御參詣をなさつてゐたらいいだらうといふ思ひもかけぬ深切な話である。私は喜んだ。それが出來たらどんなに仕合せだか解らない、是非一つ骨折つて呉れる樣にと頼み込んで、サテ改めて小屋の中を見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]すと駄菓子に夏蜜柑煙草などが一通り店さきに並べてあつて、奧には土間の側に二疊か三疊くらゐの疊が敷いてあるばかりだ。お爺さんはいつも一人きり此處に居るのかと訊くと、夜は年中一人だが、晝になると女房と娘とが麓から登つて來るのだといひながら、ほんの隱居仕事に斯んな事をしてゐるが、馴れてしまへば結局この方が氣樂でいいと笑つてゐる。
小屋の背後は直ぐ深い大きな溪で、いつの間にか此處らに薄らいだ霧は、その溪一杯に密雲となつて眞白に流れ込んでゐる。空にも幾らか青いところが見えて來た。では一※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて來るから、何卒お頼みすると言ひ置いて私は茶店を出た。雀一羽降りてゐぬ、靜かな淨土院の庭には泉水に水が吹き上げて、その側に石楠木《しやくなぎ》が美しく咲いてゐた。其處を出て釋迦堂、五輪塔と五町三町おきに何か由緒のあるらしい寺から寺をぶら/\と訪ね※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて茶店に歸つて來たが、中學生らしい大勢の客のみで、まだその娘たちは來てゐなかつた。それから私は更にこの比叡の絶頂である四明嶽に登つて行つた。その昔平將門が此處に登つて京都を下瞰しながら例の大野望を懷《いだ》いたと稱せらるる處で、まことに四空蒼茫、丹波路から江州その他へ延びて行つた山脈が限りもなく曇つた空の下に浪を打つて續いて居る。風が寒くて、とても高い處には立つて居られない。少し頂上から降りて、風にねぢけたばら/\の松原に久しい間私は寢ころんでゐた。一羽の鶯が其處らに巣でもあると見えて、遠くへは暫しも行かず、松の葉かげに斷えず囀り續けてゐた。
其處を降りて再び茶店に歸つて行くと私の顏を見た爺さんは、いま娘が來たので早速寺へ問合せにやつた、多分大丈夫と思ふが、兎に角暫く待つてゐて呉れといふ。幸ひ二三本酒壜の並んでゐるのを見たので、それを取つて冷《ひや》のままちび/\飮んでゐると、二十《はたち》歳位ゐの色の小黒い、愛くるしい顏をした娘が下の溪から上つて來た。それと二三語何か話し合ふと老爺は直ぐ齒の無い顏に一杯に笑みを含んで私の方に振向いた。私もそれを見て思はず知らず笑ひ出した。
話は都合よく運んだのであつた。が、何しろその寺はこの山の中でも一番荒れた寺で、住職もあるにはあるのだが平常は其處にゐず、麓の寺とかけもちで何か事のある時のほかはこちらへは登つて來ない、ただ一人の寺男の爺さんがゐるばかりで、お宿をすると云つてもその寺男の喰べるものを一緒に喰べて貰はなくてはならぬがそれで我慢が出來るか、とまた心配相に爺さんは私に問ひかけた。却つてその方が私も望むところだ、何しろ望みが叶つて嬉しい、お爺さんも一杯やらないか、と冷酒の茶椀をさすと、いかにも嬉しさうに寄つて來て受取つて押し頂く。お爺さんも好きらしいネ、と笑へば、これが樂しみでこそこんな山の中にもをられるのだといふ。幸ひ客も無かつたので二人してちびちびと飮み始めた。その途中にふつと氣のついた樣に、若しこれから旦那がその寺でお酒をお上りになる樣だつたら一杯でいゝから寺男の爺に振舞つて呉れ、これはまた私以上の好きで、もとはこの麓で立派な身代だつたのだがみなそれを飮んでしまひ、今では女房も子供も何一つない身となつてその山寺に這入つてゐる程の男だから、としみ/″\した調子で爺さんが言ひ出した。宜しいとも、私も毎日これが無くては過せない男だが、それでは丁度いい相棒が出來て結構だなどと話し合つてゐるところへ、溪の方から頭を丸く剃つた、眼や口のあたりに何處か拔けた處のある、大きな老爺がのそ/\と登つて來た。ア、來た/\と云ひながら茶店の老爺は立ち上つて待ち受けながら、今度はまた世話になるな、といふと、何も出來ぬが客人が困つてなさる相だから、と言ひ/\側にやつて來た。私も立ち上つて禮をいふと、向うはただ默つて眼をぱち/\させながら頭を下げてゐる。それを見ると娘はさも/\可笑しいといふ樣に、顏を掩うて笑ひ出した。茶店の爺さんも笑ひながら、旦那、この爺さんはまことに耳が遠いのでそんな聲ではなか/\通じないといふ。自分の聲は人並外れて高調子なのだが、これで聞えないとすれば全然|聾《つんぼ》同然だ、この爺さんとその荒寺に五六日を過すことか、と
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