ない感情、先づ悲哀とでもいふのか、が何處からともなく胸の中に沁み込んで來る。果ては私は眼をも瞑つて宛も石のやうになつて立つてゐた。
すると背後の中門の所から何時の間に來たのか、
「兄《あん》さん」
と千代が私に聲かけた。
返事はせずに振向くと、例の浴衣の姿が半ば月光を浴びてしよんぼりと立つて居る。
「兄《あん》さん、もう皆|寢《やす》みませうつて。」
「ウム、いま、行く。」
と言つておいて私は動きもせず千代を見上げて居る。千代もまたもの言はず其處を去らずに私を見下して居る。何故《なぜ》とはなく暫しはそのままで兩人は向き合つて立つてゐた。私の胸は澄んだやうでも早や何處やらに大きな蜿※[#「虫+廷」、第4水準2−87−52]《うねり》がうち始めて居る。
やがてして私は驚いた。千代の背後にお米が靜かに歩み寄つて物をも言はずに一寸の間立つてゐて、そうして、
「何してるのけえ?」
と千代に云つた。
「マア!」
としたゝかに千代は打驚かされて、
「何しなるんだらう!」
と、腹立たしげに叱つた。お米は笑ひもせず返事もせぬ。斯くて千代もお米も私も打ち連れて家に入つた。そして臺所の灯をば
前へ
次へ
全25ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
若山 牧水 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング