立ち寄る事なく、まる一週間滯在してゐる間、私はこの金聾の爺さんのほか、人間の顏といふものを餘り見る事なくして過してしまつた。
多いのは唯だ鳥の聲である。この大正十年が當山開祖傳教大師の一千一百年忌に當るといふ舊い山、そして五里四方に亙ると稱へらるる廣い森林、その到る所が殆んど鳥の聲で滿ちてゐる。
朝、最も早く啼くのが郭公《かつこう》である、くわつくわう[#「くわつくわう」に傍点]/\と啼く、鋭くして澄み、而もその間に何とも言ひ難い寂《さび》を持つたこの聲が山から溪の冷たい肌を刺す樣にして響き渡るのは大抵午前の四時前後である。この鳥の啼く時、山はまつたく鳴りを沈めてゐる。くわつ[#「くわつ」に傍点]と鋭く高く、さうして直ちにくわう[#「くわう」に傍点]と引く、その聲がほゞ二つか三つ或る場所で續けさまに起つたかと思ふと、もうその次は異つた或る頂上か溪の深みに移つて居る。彼女は暫くも同じ所に留まつてゐない。而して殆んどその姿を人に見せた事がない。杜鵑《ほととぎす》も朝が滋い。これは必ず其處等での最も高い梢でなくては啼かぬ。この鳥も二聲か三聲しか聲を續けぬが、どうかすると取り亂して啼き立つる事がある。その時は例の本尊かけたか[#「本尊かけたか」に傍点]の律も破れて、全く急迫した亂調となつて來る。日のよく照る朝など、聽いてゐて息苦しくなるのを感ずる。この鳥は聲よりも、峰から峰、梢から梢に飛び渡る時の、鋭い姿が誠にいゝ。それから高調子の聲に混つて、何といふ鳥だか、大きさは燕ほどでその尾の一尺位ゐ長いのがゐて、細々と、實に細々と息を切らずに啼いてゐるのがある。これは下枝《しづえ》から下枝を渡つて歩いて、時には四五羽その長い愛らしい尾をつらねてゐるのを見る。
日が闌《た》けて、木深い溪が日の光に煙つた樣に見ゆる時、何處より起つて來るのだか、大きな筒から限りもなく拔け出して來る樣な聲で啼き立つる鳥が居る。初めもなく、終りもない、聽いて居れば次第に魂を吸ひ取られて行く樣に、寄邊ない聲の鳥である。或時は極めて間遠に或時は釣瓶打《つるべう》ちに烈しく啼く。この鳥も容易に姿を見せぬ。聲に引かれて何卒して一目見たいものと幾度も私は木の雫に濡れながら林深く分け入つたが、終に見る事が出來なかつた。筒鳥といふのがこれである。
筒鳥の聲は極めて圖拔けた、間の拔けたものであるが、それをやゝ小さく
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