ふだけで、報酬といふものも殆んど無かつた。それでまた諦めてゐたのであるが、彼は急にそれで慊《あきた》らなくなつた。或る夜、得々として私に言ひ出した。今日酒屋から歸りに△△院といふに寄つて、前から話のあつた事ではあるしどうかこちらへ私を使つて呉れぬかと頼んだ所、お前さへよければいつ來てもいい、働き一つで五圓でも六圓でも金はやるからと言はれた、明日早速里に降りてこちらのお住持には斷りを言うてあちらのお寺へ移る事にする、さうすれば私もまたこれから時々は斯うしたお酒も飮めるからと、いかにも嬉しげなのである。何となく困つた事を仕出かした樣にも思うたが、強ひて止めるわけにもゆかず、それでいつから移るのだと訊くと、旦那がこゝを立たれる日に直ぐ移るといふ。こちらの住持が困りはせぬかと言へば、少しは困るだらうが致し方が無い、大體こちらのお住持が餘りに吝嗇《けち》だから斯ういふ事にもなるのだといふ。
 いよ/\私の寺を立つ日が來た。その前の晩、お別れだからと云ふので、私は爺さんのほか、最初私をこの寺に周旋して呉れた峠茶屋の爺さんをも呼んで、いつもよりやや念入りの酒宴を開いた。茶屋の爺さんは寺の爺さんより五歳上の七十一歳だ相だが、まだ極めて達者で、數年來、山中の一軒家にただ獨り寢起きして晝間だけ女房や娘を麓から通はせてゐるのである。
 寺の爺さんは私の出した幾らでもない金を持つて朝から麓へ降りて、實に克明に種々な食物を買つて來た。酒も多く取り寄せ、私もその夜は大いに醉ふつもりで、サテ三人して圍爐裡を圍んでゆつくりと飮み始めた。が、矢張り爺さん達の方が先に醉つて、私は空しく二人の醉ひぶりを見て居る樣な事になつた。そして、口も利けなくなつた、兩個《ふたり》の爺さんがよれつもつれつして醉つてゐるのを見て、樂しいとも悲しいとも知れぬ感じが身に湧いて、私はたび/\涙を飮み込んだ。やがて一人は全く醉ひつぶれ、一人は剛情にも是非茶屋まで歸るといふのだが脚が利かぬので私はそれを肩にして送つて行つた。さうして愈々別れる時、もうこれで旦那とも一生のお別れだらうが、と言はれてたうとう私も泣いてしまつた。
 翌日、早朝から轉居《ひつこし》をする筈の孝太爺は私に別れかねてせめて麓までと八瀬村まで送つて來た。
 其處で尚ほ別れかね、たうとう京都まで送つて來た。
 京都での別れは一層つらかつた。



底本:「若山牧
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