事だが家の所在が一寸して崎の鼻の蔭に位置してゐるので津浪からも逃れたのであらうといふことになつてゐた。だから今度も大抵大丈夫であらうとおもふが、それとも旦那たちが氣味が惡ければ逃げませう、まアまア念のために飯をばいまうんと炊いてゐる處だといふのだ。
しつかり者のこの老婆の言ふことをば何故だが其儘《そのまま》信用したかつた。そして若しもの事のあつた時の用意だけをしておいて山へ逃げるのを暫く見合はすことにした。
それでも屋内に入つて居れなかつた。縁側に腰かけるか庭に立つか、斷えず搖つて來るのに氣を配りながらも海面からは眼が離せなかつた。
『や、壯快丸ぢやないかナ。』
私は思はず大きな聲でさう言ひながら庭先へ出て行つた。遙かの沖に、唯だ一個の白點を置いた形で眼に映つた船があつた。其時どうしたものか見渡す沖には一艘の小舟も汽船も影を見せなかつた。其處へ白い浪をあげて走つて來るこの一艘が見え出したのだ。
『ア、ほんとだ、壯快だ/\、オーイ、壯快丸がけえつて來たよう。』
宿の息子も誰にともない大きな聲をあげた。壯快丸とはこの古宇村の人の持船で、此處から他三四ヶ所の漁村を經て沼津へ毎日通つてゐる發動機船であるのだ。
『今日は直航でけえつて來たナ、どうだいあの浪は!』
裸體のまゝの宿の亭主も出て來た。なるほどひどい浪である。舳にあがつてゐるその白浪のために、こちらに直面してゐる船の形は殆んど隱れてしまつてゐるのだ。
『ひでえ煙を出すぢアねヱか、まるで汽船とおんなじだ、全速力で走つてやがんナ。』
いよ/\壯快丸だと解つた頃には山に逃げてゐた人たちもぞろ/\とその船着場ときめてある海岸に降りて來て集つた。私たちもその中に入つてゐた。船は全く前半身を浪の中に突き入れる樣にして速力を出してゐる。そして間もなく入江の中に入つて來た。
船内には無論客も荷物もなく、丸裸體の船員だけが二三人浪に濡れて見えてゐた。
『どうだい、沼津は?』
『えれえもんだ、船着場んとこん土藏が二三軒ぶつ倒れた、狩野川がまるで津浪で船が繋いでおかれねえ。』
まだ碇《いかり》をもおろさない船と陸の群衆との間には早や高聲の問答が始まつた。
小舟で漕ぎつける人も出て來た。そして其處あたりから傳へられたらしく、今夜の十二時に氣をつけろ、でつけえ奴が搖つて來ると沼津の測候所でふれを出した、三島町は全滅で、山北で
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