樹木とその葉
海邊八月
若山牧水

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)古宇《こう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)江の浦|重寺《しげでら》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)見て※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ぐる/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 昨年の八月いつぱいを伊豆西海岸、古宇《こう》といふ小さな漁村で過しました。これはその思ひ出話。
 八月いつぱい、子供を主として何處かの海岸で暮したい、さういふ相談を妻としてから七月の初め私はその場所選定のため伊豆の西海岸へ出懸けました。西海岸と云つてもさう不便な場所では困るので、この沼津から靜浦灣を挾んで、殆んど正面に見えて居る西浦海岸を探す事になつたのです。幸ひそちらには我等の歌の社中の友人も居るので、大よその事をその友人に調べておいて貰ひ、先づ此處等がよからうといふ事を聞いた上、私は出懸けました。そして[#「そして」は底本では「そし」]指定せられた二三箇所を見て※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた末、矢張りその友人の居村である古宇村といふにきめたのでした。
 其處は半農半漁の、戸數五十戸ほどの村でした。半農と云つてもそれは殆んど蜜柑の栽培が重でそのほかに椎茸木炭などを作り出すと云つた風の山爲事なのです。その村の少し手前の江の浦|重寺《しげでら》三津《みと》などの漁村には所謂《いはゆる》避暑地としての善惡それ/″\の發展が見えてゐましたが、その古宇村にはまだ全然それらの影響がありませんでした。友人に案内せられて行つた宿屋は村内唯一の宿屋で、寧ろ漁師と百姓とを主業としてゐる風に見えました。
 旅客用の部屋は母屋《おもや》と鍵形《かぎがた》になつた離室《はなれ》の方で、二階二間、階下二間、すべて六疊づつの部屋なのです。二階は東北、及び僅かに西がかつた方角とが開けてゐて、ツイ眞下に、それこそ欄干から飛び込めさうな眞下に海がありました。そして海の向うには靜浦牛臥沼津の千本濱がずらりと見渡されて、その千本濱の少し左寄りの上の空に富士が圖拔けて高く聳えて居るのでした。
『これは素敵だ、早速此處にきめませう。』
 二階に上るや否やさう言つて、坐りもやらずに、二つの部屋をぐる/\と私は※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて歩きました。階下の部屋も欲しかつたのですが、折々※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて來る常客などのために其處だけは空けておきたいとのことで、諦めねばなりませんでした。
『イヤ、二階だけで澤山だ、そちらを子供部屋にして、此處に自分の机を置いて……』

 その夜一泊、翌朝早くの船で沼津へ歸る筈でしたが、折よく降り出した雨をかこつけにもう一日滯在することにしました。そして雨に煙つて居る靜かな入江の海を見て何をすることもなく遊んで居りますと、丁度二階の眞下の海に沿うた小徑を三人の女が何やら眞赤な木の實らしいものの入つた籠を重々と背負つて通るのが眼にとまりました。木の實の上は瑞々しい[#「瑞々しい」は底本では「端々しい」]小枝の青葉が置かれ、それに雨が降りかゝつてをりました。
『山桃!』
 さう思ふと惶てゝ私は彼等を呼留めました。
 そして中の一人から大きな笊《ざる》いつぱいその珍しい果物を買ひとりました。聞けばこの近くの江梨といふ附近の山にはこの木が澤山あるのださうです。この山桃は東京あたりではなか/\喰べられない。そして私は幼い時からこれを飽きるほど喰べて來たので、季節の來るごとに自づと思ひ出されてならぬのでした。早速皿に盛り、滴る樣な濃紫の指頭大の粒々しい實の上にさら/\と鹽を振つて、サテ徐ろに口に含みました。

 斯くして八月の朔日《ついたち》に先づ尋常三年生の長男と書生とが出懸け、二三日して殘り三人の子供と妻と私とがその古宇の宿屋へと行きました。子供達の喜びは言ふまでもありません。宿から二三町離れた所に砂濱があり、割に遠淺になつてゐるので早速彼等の泳ぎ場にきまりました。長男だけ辛うじて五六間の距離を泳げるといふのみで、あとはみなぼちや/\黨なのです。妻もまた大きな圖體で、折々このぼちや/\組に混つてゐるのです。私だけは宿の直ぐ前の石段から直ぐざんぶと躍り込んで彼等の場所まで泳いで行くのです。何年にも泳いだことがなかつたので最初は少し變でしたが、やがて氣持よく手足を伸して、綺麗な潮を掻き分け得る樣になりました。
 まつたく潮は綺麗でした。二階から見てゐますと、眞前の岸近く寄つて來て泳いでゐる
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