でした。
『これは素敵だ、早速此處にきめませう。』
 二階に上るや否やさう言つて、坐りもやらずに、二つの部屋をぐる/\と私は※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて歩きました。階下の部屋も欲しかつたのですが、折々※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて來る常客などのために其處だけは空けておきたいとのことで、諦めねばなりませんでした。
『イヤ、二階だけで澤山だ、そちらを子供部屋にして、此處に自分の机を置いて……』

 その夜一泊、翌朝早くの船で沼津へ歸る筈でしたが、折よく降り出した雨をかこつけにもう一日滯在することにしました。そして雨に煙つて居る靜かな入江の海を見て何をすることもなく遊んで居りますと、丁度二階の眞下の海に沿うた小徑を三人の女が何やら眞赤な木の實らしいものの入つた籠を重々と背負つて通るのが眼にとまりました。木の實の上は瑞々しい[#「瑞々しい」は底本では「端々しい」]小枝の青葉が置かれ、それに雨が降りかゝつてをりました。
『山桃!』
 さう思ふと惶てゝ私は彼等を呼留めました。
 そして中の一人から大きな笊《ざる》いつぱいその珍しい果物を買ひとりました。聞けばこの近くの江梨といふ附近の山にはこの木が澤山あるのださうです。この山桃は東京あたりではなか/\喰べられない。そして私は幼い時からこれを飽きるほど喰べて來たので、季節の來るごとに自づと思ひ出されてならぬのでした。早速皿に盛り、滴る樣な濃紫の指頭大の粒々しい實の上にさら/\と鹽を振つて、サテ徐ろに口に含みました。

 斯くして八月の朔日《ついたち》に先づ尋常三年生の長男と書生とが出懸け、二三日して殘り三人の子供と妻と私とがその古宇の宿屋へと行きました。子供達の喜びは言ふまでもありません。宿から二三町離れた所に砂濱があり、割に遠淺になつてゐるので早速彼等の泳ぎ場にきまりました。長男だけ辛うじて五六間の距離を泳げるといふのみで、あとはみなぼちや/\黨なのです。妻もまた大きな圖體で、折々このぼちや/\組に混つてゐるのです。私だけは宿の直ぐ前の石段から直ぐざんぶと躍り込んで彼等の場所まで泳いで行くのです。何年にも泳いだことがなかつたので最初は少し變でしたが、やがて氣持よく手足を伸して、綺麗な潮を掻き分け得る樣になりました。
 まつたく潮は綺麗でした。二階から見てゐますと、眞前の岸近く寄つて來て泳いでゐる
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