澄んでゐます。この宿には湯が二個所に湧き、而かもその五六分通りは捨ててしまはねば熱くて入り得ぬといふ有樣です。ですから少し浴場を作り變へたら所謂千人風呂位ゐ直ぐ出來るでせう。
 正月の三ヶ日あたりは流石《さすが》にこみます。今年は地震のあとで例年の樣なことはあるまいと思つてゐると、もう三十日あたりから滿員になつたとの事でした。客は學生が多く、次に老人です。何しろ來る道中が道中だものだから、身體の弱い人、氣の弱い人、または時間にきびしい制限のある人たちには一寸出かけて來られないのです。
 その正月の混雜は先づ四五日に半減され、七日か八日に及んで更に半減されます。そしてそれから後は次第に平常の靜けさに歸ります。今年も十二三日になるとこの大きな宿に僅か五六人の客がゐるだけでした。それも論文を書く學生とか少々リウマチの氣のあるといふ老人とかですから靜かなものです。
 たゞ困るのは女中の不馴なことゝ粗野なことですが、聞けば正月とか暑中とかの書入時には近所の民家の娘たちを雇ひ入れるので、客や帳場で小言でも言へばどん/\歸つてゆくとかで、致しかたのない話です。で、私はこの一二年をば半自炊の氣でやつてゐます。即ち炭から水から茶道具酒道具寢道具を一切自分の部屋にとり寄せておいて隨時自分の氣の向いた時に飮んだり寢たりするのです。至つて成績がよろしい。
 單に女中に限らず、帳場そのものからほゞそれに近いものなのです。不自由と云へば不自由、親しみの眼で見れば却つてなまなかに開けた温泉よりいゝ氣持です。

 二つある湯殿の一つにはよく日が當ります。六疊敷ほどの湯槽《ゆぶね》が三つに爲切《しき》つてあり、その一つの隅にぼんやりと一人入つてゐますと、ツイ側に落ちてゐる湯口の音のみ冴えて、いつ知らずうと/\としたくなる靜けさです。眼の前の湯の中に動いてゐる微塵《みぢん》に似た湯垢の一つ/\にはかすかに虹の樣な日光の影が宿り、湯槽の縁から溢れ出る湯は同じくほがらかに日が當つて乾き切つてゐる流し場の一端に細い小波をたてゝ流れて行つてゐます。
 湯槽からあがつてその流の中に横たはりますと、身體半分は温浴、半分は日光浴が出來るといふ有樣です。

 西風が立つたとなればあはれです。
 眞正面から打ちつけて來る怒濤の響がまつたく一人でゐる時など、戸障子を搖するかと聞ゆる時があります。
 二日續き、三日續くとな
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