し、また街道に出て暫く行くと道はやゝに海岸を離れて愛鷹山《あしたかやま》の根に向ふ形になる。そしてその向うに吉原宿の町が見えてゐる。なるほど此處では廣重の繪の左富士を想はす角度にその山を仰ぐのであつた。然し、我等は吉原には行かず、鈴川驛から汽車で富士川を渡り、蒲原の宿で降りて、またてく/\と歩き出した。
蒲原から由比にかけては道は直ちに海に沿うた山の根をゆくのであつた。海岸には土地名物の櫻海老がうす赤く乾し並べられ、山には一帶に植ゑ込まれた蜜柑畑の間に、とび/\に山櫻が咲いてゐた。由比を出拔くる時、惜しい事に薩陀峠の舊道を越すのを忘れて、汽車沿ひの磯端を歩いてしまつた。そして汽車の隧道のあるあたりでは、浪打際に降りて手を洗つたり貝を探したりして戲れた。
今日は興津泊りの豫定であつたが、先づ其處の園藝試驗場に知人を訪ねてみると伊豆の方へ旅行して留守だといふので、まだ日は高いしいつそ靜岡まで伸して置かうと急ぎ足に宿はづれの清見寺に詣で、早速汽車に乘つてしまつた。日は高くとも、もう脚の自由はきかなくなつてゐたのだ。
靜岡驛を出ると細かい雨が降つてゐた。思ひがけぬ事であつたが、惡い氣持はしなかつた。驛前通りの宿屋によつて、湯上りの勞れた脚を投げ出しながらちび/\酒を呑んでゐると、雨はいよ/\本降りになつて來た。丁度宿屋の前に何やらの神社があつて四五本の櫻がその庭に咲き綻び、しよぼしよぼと雨に濡れ、まだうす明るい夕方の灯に映つてゐる眺めなど、何だか久しぶりに旅に出てゐる樣な氣持を誘つて自づと銚子の數を増して行つた。
遲い夕飯を終つた頃、幸ひ雨間となつてゐたので出て七間町あたりを彷徨ひ、カフエーパウリスタといふ名を見附けて其處へ寄つた。ひどく醉つた末、明朝訪ねるつもりであつた法月《のりつき》俊郎君方に電話をかけると、彼は驚いて弟浩二君と共に其處へやつて來た。そして更に一杯飮み直し、十二時すぎて宿に歸つた。
朝眼が覺めるとばしや/\といふ雨の音である。どうしやうかと、枕のまゝで永い間村松君と今日の事やら無駄話をしてゐたが、幾らかづつ明るんで來る空を頼みに、豫定通りに出懸けることにきめた。法月君方に立寄つたが、濡草鞋を解くがめんだうさに店先に立話をして別れて行かうとすると、それでは私も丸子まで出かけませう、幸ひその側に吐月峯がありますから其處へも寄つて見ませうといふ。吐月峯とは可笑しな名だと思ひながら問ひかへすとさういふ名のお寺で、もとその寺から例の灰吹を作り始めたとかいふことだといふ。
びしや/\と三人雨の中を歩き出したが、明るむどころかます/\ひどい降りである。我等はどうせ濡れる覺吾の尻端折だが、足駄ばき長裾の法月君にはいかにも氣の毒であつた。名物の安倍川餅屋が安倍川橋の袂にあつて、大きな老木の柳のみどりがその門におほらかにそよいでゐた。法月君にすすめられたが、先づ/\先きの芋汁を樂しみに餅だけは割愛する事にして橋にかゝつた。隨分長い橋である。横飛沫の傘の蔭から見る川上の方に、これもこの邊の名所の木枯の森といふのが川原の中に見えた。
歩くこと二里ばかり、丸子の宿は低い藁屋の散在してゐる樣な古驛であつた。宿《しゆく》はづれの小川の橋際に今は唯だ一軒だけで作つてゐるといふとろゝ汁屋にとろゝを註文しておいて其處から右折、四五町して吐月峯に着いた。先づ小さな門を掩うてゐる深々しい篁《たかむら》が眼についた。そしてその篁の蔭には一二本づつの椿と梅とが散り殘つて、それに幾羽とない繍眼兒《めじろ》が啼き群れてゐた。門を入ると、泉水から續いた裏の山に山櫻の大きいのが二本ばかり、二分三分咲きかけてゐるのが見えた。花も莟もいいが、ことに雨に濡れていよ/\柔らかな薄紅色にそよいでゐる若葉が何ともいへず美しかつた。法月君と知合らしい住職は留守であつたが、通された部屋で暫く休んだ。寺とは云つても謂はゞ庵で、造りも小さく、年代も餘程古寂びてゐた。土地の有志たちは目下この由緒ある建物のすたれるのを惜んでとり/″\に修繕費募集中であるさうだ。
庭も同じく小さなものであるが如何にも靜かに整つた寂びたものであつた。一帶の造りが京都の銀閣寺の庭に似てゐるのでその事を法月君に話すと、この庵を結んだ人は足利義政に愛せられた人で、現に庭先を圍んでゐる篁の竹などもわざ/\嵯峨から持つて來て植ゑたものなのださうだ。かすかに池に音を立てゝ降り頻つていゐる雨を、またその雨の中に折々忍び音に啼いてゐる小鳥を聽いてゐると、もうとても宇津《うつ》の谷《や》峠を越して行く氣分がなくなつてしまつた。
先のとろゝ汁屋に歸つてその名物を味つた。とろゝ屋と云へばよく聞えるが實際は一膳飯屋が好みに應じて作るとろゝ汁なのである。それにもう季《とき》も過ぎてゐるし、確かに名物に何とやらの折紙で
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