沼津の町を過ぎて千本松原に入り込んだ。松原の中に通じてゐる甲州街道をずつと富士川まで歩いて行かうといふのである。どうしてこの松原の中の道を甲州街道と云ふか、或はまだ東海道の出來ぬ以前に此處にこの道があり、末は駿州から富士川にでも沿うて甲州の方へ入つてゐたものかも知れぬ。兎に角現在の汽車道は昔の東海道に沿ひ、その東海道は沼津から富士川の岸に到るまで三四里の間この千本松原に沿うてゐる。そしてその松原の中に細々として甲州街道と稱へらるゝこの小徑がついてゐるのだ。街道とは名ばかりで、ほんの漁師共の通ふにすぎぬものではあるが、五町十町と私はこの松原の蔭を歩くのが好きであつた。そしていつかこの小徑のはづれまで、言ひかへれば富士川の川口で盡きてゐる松原のはづれまでぼつぼつと歩いて見度いものと思つてゐた。名物の名殘を喰ひに今は亡んだ宿場まで出かけるならいつそ汽車をよして歩くがよく、歩くならば月竝《つきなみ》な東海道を歩くよりこの人知れぬ廢道を行つた方がよからうと云ふ兩人の間の相談からではあつたが、要は靜かな海岸沿ひの長い/\松原を歩き盡したいといふにあつた。
 松原に入つた頃はまだ薄暗かつた。松はたゞしつとりと先から先に立ち竝んで、ツイ左手近く響いてゐる浪の音もあるかなしかの凪ぎである。やがて空の明るむにつれて、高々と枝を張つてゐる松の梢を透して眞白な富士が見えて來た。そして同じくその右手の松の根がたに低く續いた紅ゐの色が見え出した。今を盛りに咲き揃つた桃の畑である。松原の幅は百間から二百間、その間にほゞ中央にではあるが、時には右寄り左寄りに我等の歩く徑が通じてゐる。その徑の都合で深い木立を透して花を望むことにもなり、時には松原から出て眞向ひにこの美しい畑と相向ふことにもなる。畑の幅もおほよそ二三町のもので、それが續きも續いたり、松原の見ゆる限りは同じ樣にこの燃え立つた花の畑が東西にかけてうち續いてゐるのである。一體に靜浦沼津から原にかけ、桃の名所と聞いてゐたが、斯うまであらうとは思はなかつた。花がなければ桑の畑も同じに見ゆるので、今まで氣がつかなかつたものであらう。何しろ、この松をとほしての桃の花見は今日の旅に思ひがけぬ附録なので、兩人とも早や何とならぬ旅めいた浮かれ心地になつて松原の中の徑を急いだ。
 が、何しろ濱の松原である。歩いてゐる小徑はすべて濱から續いた石ころ道で、しかも砂氣のない拳大の小石ばかりが揃つてゐる。初めは快く歩き出したものゝ、ものゝ一里も歩いて來ると早や草鞋《わらぢ》の裏が痛くなつた。『濱へ出て見ようか』と言ひながら松原を左に拔けて、白々とした荒濱に出て見ると駿河灣の輝きが眼の前にあつた。麗かな日ざしに照らされた海面からは靄とも霞ともつかぬものがいちめんに片靡きに湧き立つて、左手向うに突き出てゐる伊豆半島の根にかけうつすらと棚引いてゐる。それと向ひ合ふ筈の御前崎《おまへざき》のあたりは全く霞み果てゝ影も見えず、僅かに手近の三保の松原が波の光の上に薄墨色に浮んで見える。ちら/\と寄する小波も全くこんな大海の岸であるとは思はれぬ凪である。見てゐる瞳は自づと瞑《と》ざされ吐く呼吸は自づと長く、いつか長々と身體をも横たへたい氣持となる。
 また松原の中の小徑に歸つて歩き出したが、桃の花は相變らず其處に美しく見えてゐるが、兎に角に痛い足の裏である。なまなかにいま投げ出して休んだだけ、一層に痛みを感じ出して來た。終《つひ》に我を折つて桃畑の向うに町の家並の見え出したを幸ひにそちらへ向けて松原から出てしまつた。そしてその町の取つ着きから平坦を極めた廣やかな大道を伸び/\として歩き出した。即ち其處は五十三次のうち沼津の次に當る原の宿であつたのだ。
 一筋町の細長い其處を離れると、いよ/\廣重模樣の松並木が道の兩側に起つて來た。並木を通して右手眞上には富士、左には今までと反對に桃畑を前にした松原が見えてゐる。道のよさに歩みも早く、いつか鈴川近くなつたが、おほかた田子の浦はこの邊に當ると聞いてゐたので道を左に折れ、この邊よほど木立の疎くなつた松原を拔けて濱へ出て見た。濱の砂は先程休んだあたりの小石原と違つてこまかい眞砂であつた。そして濱はずつと廣くなつてつぎ/\に低い砂丘が起伏して居る。松原つづきの小松が極めてとび/\にそれらの砂丘に散らばり、所によつてはそれとも見えぬ痩麥が矢張り畝《うね》をなして植ゑられてゐた。一帶の感じが何となく荒涼としてゐて、田子の浦といふ物優しい名の聯想とは全く異つてゐるのを感じた。振向くと見馴れた富士の姿も沼津あたりとは違つて距離も近く高さも高く仰がるゝのであつた。傍へに富士川があり、前にこの山を仰ぎ背後に駿河灣を置いた眺めは太古にあつては一層雄大なものであつたに相違ないと思はれた。
 思はず長い時間を其處で費
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