に來て坐つてゐる。
『濟《す》まないが、お握りを三つほど拵《こしら》へて呉れないか、海苔に包んで……』
不思議さうにこちらを見上げた妻は、やがて笑ひながら、
『何處にいらつしやるの。』
と訊いた。
『山に行つてお晝をたべて來やうと思ふ。ウヰスキーがまだ殘つてゐたね。』
その長い壜を取り出して見ると、底の方に少し殘つてゐた。それを懷中用の小型の空壜に移して、坐りもせずに待つてゐると眞黒な握り飯が出來て來た。
『おさいが何もありませんが……』
『澤庵をどつさり、大切りにして入れておいて呉れ。』
それらを新聞紙に包んで抱へながら裏木戸から畑の中へ出た。
畑つゞきにその山の麓まで私の家から五丁と離れてゐないのだ。畑には大抵百姓たちが出てゐた。麥は穗を孕《はら》み、豌豆には濃い紫の花が咲いてゐる。附近の百姓家からでも來るのか、そんな畑の中にも櫻の花片の散つてゐるのが見られる。古い寺の裏を通りすぎて登りかゝる道はこの海拔六百六十尺の小山に登る四つ五つの道のうち、最も嶮しい道である。然し、それが私の家からは一番近い。
小山ながら海寄りの平野に孤立して起つた樣な山なので、この頂上からは四方の遠望が利く。北東には眞上に富士が仰がれる。が、その山の形よりその裾野の廣いのを眺めるのに趣きがある。次第高になつてゆく愛鷹《あしたか》と足柄《あしがら》との山あひの富士の裾野がずつと遠く、ものゝ五六里が間は望まれるのである。然し、その日は私は頂上まで行き度くなかつた。其處ではどうしても氣が散りがちであるからだ。そして中腹の、やゝ窪みになつた所に行つて新聞包を置いた。
其處には矢張り他の場所と同じく一面の小松が生えて、松の下には枯草が程よく地を覆うてゐる。よく私の行く所なので多分私が吸ひすてたに相違ない煙草の吸殼などが枯草のかげに落ちてゐる。蜜柑の皮の乾びたのも見えた。其處からは海を見るに都合がいゝ。ことに廣い駿河灣一帶よりも直ぐ眼の下に見える江の浦の細長い入江を見るに恰好《かつかう》な所に當つてゐる。
『やれ/\』
何といふ事なく獨り言を言ひながら、私は其處につき坐つた。そして煙草に火を點けた。
入江を越した向うの伊豆の連山には重い白雲が懸つてゐた。上は濃く、下は淡く、そしてその淡いところだけがかすかに動いてゐる樣に見えた。山かげの入江の海はいかにも冷たく錆び果てて、何處をたづ
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