樹木とその葉
若葉の山に啼く鳥
若山牧水
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)棲《す》むところは
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから2字下げ]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ぴしよ/\の
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今月號の或雜誌に佛法僧鳥のことが書いてあつた。棲《す》むところはきまつてゐて夏のあひだだけ啼く鳥なのかと思つてゐたら、遠く南洋の方から渡つて來て秋になればまた海を渡つて歸つて行く鳥であるさうだ。
私たちの結婚した年であつたから恰度今から十一年前にあたる、武藏の御嶽山《みたけさん》に一週間ほど登つてゐた事がある。山上のある神官の家に頼んで泊めて貰つてゐた。ある夜、私は其處の厠《かはや》に入つてゐた。普通の家のよりずつと廣い厠であつた。良い月の夜で、廣やかな窓から冴えた光がいつぱいに射しこんでゐた。其處へ聞きなれぬ鳥の聲が聞えて來た。何でもツイ厠に近い樹の梢からであつた。
私の癖の永い用を足して自分の部屋に歸つたが、閉め切つた雨戸を漏れてなほその澄んだ聲が聞えて來る。ランプの灯影にぢいつと耳を傾けてゐたが、僅の定つた時をおいて續けさまに聞えて來るその鳥の聲のよさに私はたうとう立ちあがつて戸外へ出た。そしてあの樹であらうと思つてゐた何やら大きな樹の根がたに歩み寄つた。然しその時は其處とは少し離れた他の樹の梢にその聲は移つてゐた。足音を忍ばせてその樹へ近づいて行つたが、それを知つたかどうか、またその先の杉の樹に啼き移つてゐた。毎晩霧の深いに似ず、その夜はまつたくよく晴れて、見渡す峰といふ峰は青みを帶びてくつきりと冴え、眼下の谷を埋めて立ち竝んでゐる杉の一本一本の梢すらも見分けられさうな月夜であつた。其處へその鳥の聲だけがたつた一つ朗かに冴えて響いてゐるのである。鋭いといふでなく、圓みを持つた、寂びた聲で、幾分の濕りを帶びながら、石の上を越え落つる水の樣になめらかに聞えて來るのである。
次第に昂奮した心で私は飽くことなくその聲を追うて山の傾斜の落葉の上を這ひながら立ち込んだ杉の樹の根から根を傳つて行つた。どうかその聲の落ちて來る眞下でとつくりと聽き入りたかつたからである。けれど一聲か二聲を啼き捨てゝは次の樹へ移るこの鳥にはとても追ひつくことは出來なかつた。ほどほどで諦めてぴしよ/\の朽葉を踏みながら宿の庭まで歸つて來ると、相變らず月はよく冴え、恰も其の月の夜の山や川の魂でゝもあるかの樣に私にとつては生れて初めて耳にするこの不思議な鳥は澄んで寂しく聞えてゐたのであつた。翌朝、この事を宿の人に訊くと、それは佛法僧ですと教へて呉れた。
驚きと昂奮とが先に立つて私はその時の鳥の聲がどんな風であつたかを明瞭に覺えてゐない。それから數年後のある初夏に山城の比叡山に登り、山上にある古い寺に滯在してゐた時、これによく似た鳥を聞いた。寺の僧に訊くと彼は筒鳥だと答へた。これを聞いたのは多く晝であつた。晝といつても午前三時頃から啼き出すので、谷には雲がおり空には月の冴えたなかに聞いたこともあつたのである。その時に書いた紀行の中にこの鳥のことを斯う書いてゐる。
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日が闌《た》けて木深い溪が日の光に煙つた樣に見ゆる時何處より起つて來るのだか、大きな筒から限りもなく拔け出して來る樣な聲で啼きたてる鳥がある。初めもなく終りもない、聽いてゐれば次第に魂を吸ひ取られてゆく樣な、寄るべない聲の鳥である。或時は極めて間遠に、或時は釣瓶打《つるべうち》に烈しく啼く。この鳥も容易に姿を見せぬ。聲に引かれてどうかして一目見たいものと幾度も木の雫に濡れながら林深くわけ入つたが終《つひ》に見ることが出來なかつた。筒鳥といふのがこれである。
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この筒鳥といふのが若しかしたら佛法僧ではあるまいかと私は思つてゐる。右に引いたある雜誌には佛法僧の姿を『鳩より心持小さく羽毛全體緑色勝ち、頭は淡黒色、嘴は朱色をして短く末端が少しく曲り、背と腹は緑色、それにコバルト色の冴えた斑があり、翼は碧緑色をして約七寸ばかり、翼と尾の端は黒く濡れ羽色をしてゐる』と記したあとにその啼き聲を書いて『ホツホー、ホーホーホーホー』といふ風に啼くとしてある。これだと私の聞いた筒鳥とよく似てゐるのだ。
然し、いづれにせよこの鳥の啼き聲は到底文字などに書き現せるものではない。聲に何の輪郭がない。まつたく初めもなく終りもない。そしてこの鳥の啼いてゐる間、天も地もしいんとする樣な靜けさを持つた寂びた聲である。
これに似たものに郭公がある。これは『カッコウ、カッコウ』と二聯の韻を持つて啼きつゞける。筒鳥よりも一層寂しく迫つた調子を帶びてゐる。同じく明け方から晴れた日の晝にかけて啼く。降る日は聲が少ない。雨にふさふのは山鳩であらう。
もう一つ、呼子鳥がある。これは一層よく筒鳥に似てゐる。矢張り文字には書けないが、先づ『ポンポンポンポンポン』と云つた風に啼きつゞける。筒鳥より聲も調子も小さく聞える。これは夕暮方によく啼いたとおもふ。
すべて若葉に山の煙るころから啼きそめる鳥である。榛名山に登る時、ずつとうち續いた小松の山の大きな傾斜に松のしんがほのぼのと匂ひ立つてゐるなかに聞いた郭公なども忘られ難い。奧州で豆蒔鳥と呼ぶのはこの郭公のことらしい。
若葉といひ、松のしんといひ、うちけぶつた五月晴の空といひ、そんなことを思ひ浮べると、どうしてもこれらの深山の鳥の啼く聲が身に浸み響いて來てならない。いま手をつけてゐる忙しい爲事を果したら早速三河の鳳來寺山に登るつもりである。この山は古來佛法僧の棲むので名高い山である。身延の奧の院七面山あたりにも啼いてゐることゝおもふ。
底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
入力:柴 武志
校正:林 幸雄
2001年6月13日公開
2005年11月14日修正
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