れたから思ひ出した程度のもので、要するに亭主同樣この永續的貧乏に對しては極めてノン氣であるらしい。
 早稻田の學校を出たのはたしか二十四歳であつた。學校にゐる間も後半期は郷里からの送金途絶えがちであつたので半分自ら稼いで過してゐた。學校を出ると程なく京橋區の或る新聞社に勤めた。
 月給は二十五圓であつた。社命で止むなく大嫌ひの洋服を月賦で作つたが、ネクタイを買ふ錢がなく、それ拔きで着て出てゐたところ――さうだ、靴をば永代靜雄君のを借りて穿いたのだつた――社の古老田村江東氏が見兼ねて自分のお古を持つて來て結んで呉れた。居ること約半年、社内に動搖があつて七人ほど打ち揃うて其處を出た。そしてまた間もなく同區内の他の新聞社に出ることになつた。ところが前のと違つてどうもその社内の空氣が面白くなく、前社同樣二十五圓の月給をば二箇月分か貰つたが出社して事務をとつたのは僅々五六日であつた。
 それから暫く浪人してゐてやがて短歌中心の文藝雜誌『創作』を京橋の東雲堂から發刊する事になつた。編輯を續けること四五ヶ月、漸く雜誌の基礎も定まる樣になると月並《つきなみ》で煩雜なその仕事がイヤになり、それをば他の友
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