人に讓つておいて所謂《いはゆる》「放浪の旅」に出た。三四年間の豫定で、各地の歌人を訪ねながら日本全國を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて來ようといふのであつた。
先づ甲州に入り、次いで信州に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つたところ、運わるく小諸町で病氣に罹つた。そして其處の或るお醫者の二階に二ヶ月ほども厄介になつてゐた。出立早々病氣に罹つた事が、いかにも出鼻を挫かれた氣持で、折角企てた永旅もまたイヤになつて東京へ引返して來、當時月島の端に長屋住居をしてゐた佐藤緑葉君の家に身を寄せた。初冬の寒い頃であつた。或日彼の細君から「若山さん、二圓あるとお羽織が出來ますがねエ」と言つて嘆かれた事を不圖《ふと》いま思ひ出した。その前後であつたのだらう、北原白秋君の古羽織を借りたが借り流しにしたかの事も續いて思ひ出されて來た。
それから再び『創作』の編輯をやることになり、飯田河岸の、砲兵工廠の眞向ひに當る三階建の古印刷所の三階の一室を間借して住む事になつた。あのどろ/\に濁つた古濠の上に傾斜した古家屋の三階のこととて、二三人も集つて坐りつ立ちつすればゆらつくといふ實に危險千萬なものであつたが――實際小生が其處を立退くと直ぐその家は壞されてしまつた――その時はさうした變なところが妙に自分の氣持に合つてゐたのだ。その前後が最も小生の酒に淫《いん》してゐた頃で、金十錢あれば十錢、五錢あれば五錢を酒に代へ飮んでゐた。イヤ、それだけでなく帽子が酒になり、帶までもそれに變つた。
さうしてその頃小生の詠んでゐた歌は次の樣なものである。
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正宗の一合壜のかはゆさは珠にかも似む飮まで居るべし
わが部屋にわれの居ること木の枝に魚の棲むよりうらさびしけれ
誰にもあれ人見まほしき心ならむ今日もふらふら街出であるく
其處此處の友は今しも何をして何想ふならむわれ早やも寢む
わだつみの底に青石搖るるよりさびしからずやわれの寢覺は
明けがたの床に寢ざめてわれと身の呼吸《いき》することのいかにさびしき
寢ざむればうすく眼に見ゆわがいのちの終らむとする際《きは》の明るさ
夜深く濠に流るる落し水聞くことなかれ寢ざむるなかれ
かなしくも命の暗さきはまらばみづから死なむ砒素《ひそ》をわが持つ
青海のひびくに似たるなつかしさわが眼の前の砒素にあつまる
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