溪谷がある。兩岸は切り立つた樣な斷崖で、その斷崖には意外なほど多くの樹木が生えてゐる。その相迫つた斷崖の底に極めて細く深く青み湛へた淵は、時にまた雪白な飛沫をあげた奔湍となつて流れ下る。
 溪流そのものも矢張り他に見られぬ面白さを持つて居るが、私はことにその流を挾む兩岸の斷崖に茂つて居る木立を愛するものである。樹は多く年を經た老樹で、土氣とぼしい岩の間に、殆んど鑛物化した樣なその根を張り枝を伸ばして、形あやしく立つて居る。私が初め其處を見たのは秋の末、落葉の頃であつた。いはゆる寒巖枯木《かんがんこぼく》の風情《ふぜい》は充分に眺められたが、それを見るにつけても若葉の頃がなほ一層にしのばれた。で、その翌年の五月、はる/″\とまた其處へ出かけて、山櫻が咲き、山櫻が散り、とりどりの木の芽が萌え、躑躅が咲き、藤の花の咲き出すまで、二十日ほども其處に程近い川原湯温泉に泊つてゐて、毎日々々その溪間の眺めを樂しんだものであつた。川原湯温泉から直ぐその不思議な眺めを持つ峽谷に入つて出はづれるまで約一里、出はづれると遙かに大きな吾妻川の流域が見渡された。野原とも云ひたいこの廣大な溪谷にももく/\とした若
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