そんな所に住む必要があつたのだ。一緒になつて幾月もたゝぬところに私の郷里から父危篤の電報が來た。其處で周章《うろた》へて歌を纒《まと》めて東雲堂へ持ち込み、若干の旅費を作つて歸國したのであつた。で、この本の校正をば遠く日向の尾鈴山の麓でやつたのであつた。最初の校正刷を郵便屋の持つて來た時、私は庭の隅の据風呂に入つてゐて受取つた。そして濡れた手で封を切つてそれを見ながら、何となしに涙を落したことを覺えて居る。
 郷里には一年ほどゐた。一時よくなつた父がまた急にわるくなつて永眠したあと、いつそ郷里で小學校の教師か村役場にでも出て暮らさうかなどとも考へたのであつたが、矢張りさうもならず、五月ごろであつた、非常に重い心を抱いてまた上京の途についた。そしてその途中、前から手紙などを貰つてゐた伊豫岩城島の三浦敏夫君を訪ふことにした。先づ伊豫の今治《いまはる》に渡り、それから瀬戸内海の中の一つの小さな島に在る同君宅を訪ねて行つた。勸めらるゝまゝに同家の別莊風になつた一軒に暫く滯在してゐた。海の上に突き出しになつた樣な部屋は實に明るくて靜かであつた。フツと私は其處で郷里に歸つてゐた間に詠んだ歌を一册に纒めて見たいと思ひついた。そして荷物を解いてノートを取り出し一首々々清書し始めたのであつたが、それは私にとつて意外にも苦しい事業である事を知つた。郷里の一年間は異樣に緊張した感傷的な、また思索的な時間を私に送らせたのであつた。だから詠んだ歌にしろ、いつか平常の埒《らち》を放れて一首が四十四五文字もある樣なものになつたり、雅語から離れて口語になつたり、今までにない變體なものばかりが出來てゐた。それを、その郷里から離れてそんな一つの島の岸の靜かな所で見直し始めたので、周圍の環境が急變したゝめに、己れ自身自分の心の姿に驚いたのであつた。一首を寫し二首を清書してゐるうちに、全く息のつまる樣な苦しさを覺えて來た。後には飯が食へなくなつた。それを見て三浦君がひどく心配し、では私が清書しませうと云つて、大半彼が代つて寫しとつて呉れたのであつた。それを持つて上京して、當時『ホトトギス』を發行してゐた籾山書店に頼んで出版したのが『みなかみ』であつた。この歌集は私のものゝ中でも最も記念すべきものである樣に思はるゝ。その前の『死か藝術か』あたりから多少づつ變りかけてゐた私の詠歌態度が、この集に於て實に異樣に
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