菊判にしたのが珍しかつた。
程なく私は當時東雲堂の若主人西村小徑(いまの陽吉)君と一緒に雜誌『創作』を發行することになり、その創刊號と相前後して『別離』を同君方から出すことになつた。意外にこれがよく賣れたので、その前の二册はほんの内緒でやつた形があり、かた/″\で世間ではこの『別離』を私の處女歌集だと思ふ樣な事になつた。また、内容も前二册の殆んど全部を收容したものであつた。これの再版か三版かが出た時に金拾五圓也を貰つて私は甲州の下部温泉といふに出向いた事を覺えて居る。歌集で金を得たこれが最初である。
『創作』の毎月の編輯に間もなく私は飽いた來た。そしていはゆる放浪の旅が戀しく、三四年間で日本全國を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]るつもりで先づ甲州に入り、次いで信州に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた。かれこれ半年もそんなことをしてゐるうちにまた東京が戀しくなつて歸つて來て出版したのが『路上』である。これは當時小石川の竹早町に主として古本を買つてゐた博信堂といふ店の主人が或る紙屑屋から古人尾崎紅葉の未發表の原稿を手に入れたといふのでそれで大いに當てる積りで急に出版を始め、案外にも失敗して困つてゐた頃太田水穗さんの紹介でその店から出すことになつたのであつた。これには珍しく油繪の口繪が入つてゐる。私の歌集に肖像寫眞以外斯うした口繪の入つてゐるのはこの一册だけである。この口繪に就いて思ひ出す。出版する少し前に山本鼎君と一緒に數日間下總の市川に遊びに行つてゐた。或日同君が江戸川べりの榛《はん》の若芽を寫生すると云つて畫布を持ち出したのについて行き、その描かれるのを見てゐるうちに私は草原に眠つてしまつた。それを見た同君は急に榛の木をやめて眠つてゐる私を寫生してしまつた。サテ東京へ引上げようとなつて宿屋の拂ひが足りず、その繪を其處に置いて歸つた。それを博信堂の主人と共に幾らかの金を持つて出懸けて受取つて來て三色版にしたのであつた。原畫は私が持つてゐたのだが、富田碎花君がいつしか持ち出し、それをまたその愛人だかゞ持ち出し、思ひがけない何處か長崎あたりへ行つてゐるといふ話をあとで聞いた。
『死か藝術か』に就いても思ひ出がある。喜志子と初めて同棲して新宿の遊女屋の間の或る酒屋の二階を借りてひつそりと住んでゐた。その頃彼女は遊女たちの着物などを縫つて暮してゐたので
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