樹木とその葉
島三題
若山牧水

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)今治《いまはる》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)郷里|日向《ひうが》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)少し※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)なか/\立派なものであつた。
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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      その一

 伊豫の今治《いまはる》から尾の道がよひの小さな汽船に乘つて、一時間ほども來たかとおもふ頃、船は岩城島《いはきじま》といふ小さな島に寄つた。港ともいふべき船着場も島相應の小さなものであつたが、それでも帆前船の三艘か五艘、その中に休んでゐた。そして艀《はしけ》から上つた石垣の上にも多少の人だかりがあつた。一寸重い柳行李を持てあましながら、近くの人に、
『M――といふ家はどちらでせう。』
 と訊くと、その人の答へないうちに、
『M――さんに行くのですか。』
 と他の一人が訊き返した。同じ船から上げられた郵便局行の行嚢を取りあげやうとしてゐる配達夫らしい中年の男であつた。
『さうです。』
 と答へると、彼は默つて片手に行嚢を提げ、やがて片手に私の柳行李を持ち上げて先に立つた。惶てながら私はそのあとに從つた。
 二三町も急ぎ足にその男について行くと彼は岩城島郵便局と看板のかゝつてゐるとある一軒の家に寄つて私を顧みながら、
『此處です。』
 と言つた。
 其處のまだ年若い局長であるM――君は夙《と》うから我等の結社に加入して歌を作つた。その頃一年あまり私は父の病氣のために東京から郷里|日向《ひうが》の方に歸つてゐた。そのうち父がなくなり、六月の末であつたか、私は何だか寂しい鬱陶しい氣持を抱きながら上京の途についたのであつた。そしてその途中、豫ねてその樣に手紙など貰つてゐたので、九州から四國に渡り、其處から汽船に乘つてこのM――君の住む島に渡つて行つたのである。手紙の往復は重ねてゐたが、まだ逢つた事もなく、どんな職業の人であるかも知らなかつた。
 M――君はたいへん喜んで、急がないならどうぞゆつくり遊んでゆく樣に、と勸めて呉れた。身體も氣持もひどく疲れてゐた時なので、言葉に甘えて私は暫く其處に滯在する事にした。M――君はその本宅と道路を中にさし向つた別莊の雨戸をあけて、
『こちらが靜かですから……』
 自由に起臥する樣にと深切に氣をつけて呉れた。
 M――家は島の豪家らしく、別莊などなか/\立派なものであつた。私の居間ときめられた離宅《はなれ》は海の中に突き出た樣な位置に建てられ、三方が海に面してゐた。肱掛窓に凭《よ》つて眺めると、ツイその正面に一つの島が見えた。その島はかなり嶮しい勾配を持つた一つの山から出來てゐて、海濱にも人家らしいものはなかつた。山には黒々と青葉が茂つてゐた。その島の蔭から延いて更に二つ三つと遠い島が眺められた。遠くなるだけ夏霞が濃くかゝつてゐた。手近の尖つた島と自分の島との間の瀬戸をば日に一度か二度、眼に立つ速さで潮流が西に行きまた東に流れた。汐に乘る船逆らふ船の姿など、私には珍しかつた。
 一方縁側からは自分の島の岬になつた樣な一角が仰がれた。麓からかけて隨分の高みまで段々畑が作られて、どの畑にも麥が黄いろく熟れ、滯在してゐるうちにいつかあらはに刈られて行つた。
 その頃私は或る私立大學を卒業して五六年もたつてゐるに係らず、まだ職業らしい職業を持つてゐなかつた。『金にもならぬ和歌ばかり作つてゐて一體お前はこの若山家をどうする氣か』と云つて、先頃まで歸つてゐた郷里の家で、病父の枕許で、年とつた母や親戚たちから私は責められた。苦しい中から學資を貢がせられ、漸く卒業したと思ふに五年たつても六年たつても金の一圓送つて貰へない彼等の身になつて見るとその苦情も當然であつた。たゞ父だけはその性分からか、さまでに氣にかけず『もう少し待つて見ろ、そのうちに何かするだらう』と寧ろ彼等を慰めてゐた。その父が死んで見るといよ/\私の立場は苦しくなつた。是から東京に出て新聞社などに勤めた所で幾らの送金が出來るわけでもなし、いつそこのまゝ母の側にゐて小學校なり村役場なりに出て暮らさうかとまで考へて、その口を探したがなまじひに何々卒業の肩書のあるのが邪魔になつて都合よく行かなかつた。いよいよ弱つたはてにまた母や姉から若干の旅費を貰つて、ともかく東京へ出て見ようといふ途中に、この瀬戸内海の中の小さな島に立ち寄つたのであつた。
 凭り馴れた肱掛窓に凭つてかけ出しの樣になつてゐる窓下を見るともなく見てゐると、丁度干潟になつた其處に何やら蠢《うごめ》くものがある。よく見ると、飯蛸《いひだこ》だ。一つ、二つ、やがては五つも六つも眼に入つて來た。それを眺めながら、私は懶《ものう》く或る事を考へてゐた。父危篤の電報に呼び返さるゝ數日前に私は結婚してゐた。一軒の家でなく、僅か一室の間借をして暮してゐたので、私の郷里滯在が長引くらしいのを見ると、妻も東京を引きあげて郷里の信州に歸つてゐた。そして其處で我等の長男を産んでゐた。私が今度東京に出るとなると、早速彼等を呼び寄せなくてはならぬ。要るものは金である。その金の事を考へてゐるうちに見つけたのが飯蛸であつた。そして可愛ゆげに彼等の遊び戲れてゐるのに見入りながら、不圖《ふと》一つの方法を考へた。一年あまりの郷里滯在中は初めから終りまで私にとつては居づらい苦しい事ばかりであつた。どうかしてそれを紛らすために、いつか私は夢中になつて歌を作つてゐた。その歌が隨分になつてゐる筈だ。それを一つ取り纒《まと》めて一册の本にして多少の金を作りませう、と。
 括《くく》つたまゝ別莊の玄關にころがしてあつた柳行李を解いて、私はその底から二三册のノートを取り出した。そしてM――君から原稿紙を貰つて、いそ/\と机に向つた。左の肱が直ぐ窓に掛けられる樣に、そして左からと正面からと光線の射し込む位置に重々しい唐木の机は置かれたのである。
 が豫想はみじめに裏切られた。それ以前『死か藝術か』といふ歌集に收められた頃から私の歌は一種の變移期に入りつつあつたのであるが、一度國に歸つてさうした異常な四周の裡《うち》に置かるゝ樣になると、坂から落つる石の樣な加速度で新しい傾向に走つて行つた。中に詠み入れる内容も變つて來たが、第一自分自身の調子どころか二千年來歌の常道として通つて來た五七五七七の調子をも押し破つて歌ひ出したのであつた。何の氣なしに、原稿紙を擴げて、順々にたゞ寫しとらうとすると、その異樣な歌が、いつぱいノートに滿ちてゐたのである。實は、郷里を離れると同時に、時間こそは僅かであつたが、やれ/\と云つた氣持ですつかり其處のこと歌のことを忘れてしまつてゐたのであつた。そしていま全く別な要求からノートを開いて見て、其處に盛られた詩歌の異樣な姿にわれながら肝をつぶしたのである。
 其處には斯うした種類の歌が書きつらねてあつた。
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納戸《なんど》の隅に折から一挺の大鎌ありなんぢが意志をまぐるなといふが如くに
新たにまた生るべしわれとわが身に斯くいふ時涙ながれき
あるがままを考へなほして見むとする心と絶對に新しくせむとする心と
ともし斯くもするはみな同じやめよさらばわれの斯くして在るは
いづれ同じ事なり太陽の光線がさつさとわが眼孔《がんこう》を拔け通れかし
感覺も思索も一度切れてはまたつなぐべからず繋ぐべくもあらず
日を浴びつつ夜をおもふは心痛し新しき不可思議に觸るるごとくに
言葉に信實あれわがいのちの沈默よりしたたり落つる言葉に
さうだあんまり自分の事ばかり考へてゐたあたりは洞穴《ほらあな》の樣に暗い
自分の心をほんたうに自分のものにする爲にたび/\來て机に向ふけれど
自分をたづぬるために穴を掘りあなばかりが若し殘つたら
何處より來れるやわがいのちを信ぜむと努むる心その心さへ捉へ難し
眼をひらかむとしてまたおもふわが生《よ》の日光のさびしさよ
死人の指の動くごとくわが貧しきいのちを追求せむとする心よ
[#ここで字下げ終わり]
といふ樣なのがあるかと思へば、また、
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ふと觸るればしとどに搖れて影を作る紅ゐの薔薇よ冬の夜のばらよ
開かむとする薔薇散らむとするばら冬の夜の枝のなやましさよ
靜かにいま薔薇の花びらに來ていこへるうすきいのちに夜《よる》の光れり
傲慢なる河瀬の音よ呼吸《いき》烈しき灯《ひ》の前のわれよ血の如き薔薇よ
悲しみと共に歩めかし薔薇悲しみの靴の音をみだすなかればらよ
吸ふ息の吐く息のわれの靜けさに薔薇の紅ゐも病めるがごとし
むなしきいのちに映りつつ眞黒き珠の如く冬薔薇の花の輝きてあり
われ素足に青き枝葉《えだは》の薔薇を踏まむ悲しきものを滅ぼさむため
薔薇に見入るひとみいのちの痛きに觸るる瞳冬の日の午後の憂鬱
古びし心臟を捨つるが如くひややかに冬ばらの紅ゐに瞳向へり
愛する薔薇をむしばむ蟲を眺めてあり貧しきわが感情を刺さるる如くに
灯を消すとてそと息を吹けば薔薇の散りぬ悲しき寢醒の漸く眠りを思ふ時に
この冬の夜に愛すべきもの薔薇ありつめたき紅ゐの郵便切手あり
やや深き溜息をつけば机の上眞青のばらの葉が動く冬の夜
ラムプを手に狹き入口を開けば先づ薔薇の見えぬ深き闇の部屋に
餘り身近に薔薇のあるに驚きぬ机にしがみつきて讀書してゐしが
忘れものばかりしてゐる樣なおちつきのない男の机の冬の薔薇
晝は晝で夜は一層ばらが冷たい樣だ何しろおちつかぬ自分の心
と思ふまにばらがはら/\と散つた朝久しぶりに凭つた暗い机に
ぢいつとばらに見入る心ぢいつと自分に親しまうとする心
斯うしてぢいつと夜のばらを見てゐる時も心はばらの樣に靜かでない
ばらが水を吸ひやめたやうだガラスの小さな壜の冬の夜のばらが
[#ここで字下げ終わり]
かと思ふと、或る海岸の荒磯に遊んでは、
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あはれ悲しいで衣服《いふく》をぬがばやと思ふ海は青き魚の如くうねり光れり
とかくして登りつきたる山のごとき巨岩《きよがん》のうへのわれに海青し
岩角よりのぞくかなしき海の隅にあはれ舟人ちさき帆をあぐ
嬉し嬉し海が曇るこれから漸くわたしのからだにもあぶらが出る
身體《からだ》は一枚の眼《め》となりぬ青くかがやける海ひらたき太陽
岩のあひだを這ひて歩くはだしで笑ひて浪とわれと
鵜が一羽不意にとびたちぬ岩かげの藍色の浪のふくらみより
下駄をぬいでおいたところへ來たこれからまた市街《まち》へ歸るのだ
この帆にも日光の明暗ありかなしや青き海のうへに
水平線が鋸の齒のごとく見ゆ太陽のしたなる浪のいたましさよ
少女よその蜜柑を摘むことなかれかなしき葉の蔭の
精力を浪費する勿れはぐくめよと涙して思ふ夜の浪に濡れし窓邊に
悲しき月出づるなりけり限りなく闇なれとねがふ海のうへの夜に
[#ここで字下げ終わり]
 と云ふ風の歌を作つてゐるのであつた。
 ツイ、僅かばかり前に一生懸命して自分で作つておきながら、いま改めて見直すとなつて殆んど正體なく驚いたのである。どうしてあんなに驚いたのか今考へればわれながら可笑しいが、とにかくに驚いた。ほんの數日ではあつたが、郷里を離れてさうした島の特別にも靜かな場所に身を置いたゝめ、前と後とで急に深い距離が心の中に出來てゐたのかも知れぬ。
 驚愕はいつか恐怖に變つた。何だか恐しくて、とても平氣でそんな歌を清書してゆく勇氣がなくなつてしまつた。と云つて、心の底にはさうして作つてゐた當時の或る自信が矢張り何處にか根を張つてゐた。そしてその自信は書かせようとする、故のない恐怖は書かせまいとする、その縺《もつ》れが甚しく私の心を弱らせた。二日三日とノートと睨《にら》み合ひをしてゐるうちに終《つひ》に私は食事の量が減り始めた。氣をまぎらすためにM――君から借りて讀んだ萬
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