かには金の使ひやうがないではないか、此處に限らない、灯臺の在る所は大抵似たり寄つたりの場所ばかりなのだ、現に此處の臺長なども幾個所か勤めて歩いて來たのだがその間に溜めた金と云つたら素晴らしいものだ、今では伊豆の方に澤山な地所も買つてあり家をも建てゝ、其處から長男長女を中學校女學校に出してゐる、君もいつまでも歌だの文學だのと言つて喰ふや喰はずにゐるよりか、一つ方角を變へてこの道に入らないか、入つたあとでまた歌なり何なり充分に勉強出來るではないか、見給へ、僕等は四人詰で此處に斯うしてゐるが、職業に就いて費す時間と云つたら朝の燈臺の掃除と夕方の點火と二三行の日記を書く事と、全部で先づ毎日三四十分の時間があつたらいゝのだ、あとは何をしてゐやうと自分の勝手ではないか、いろいろ慾を考へずにさうきめた方が幸福だと思ふよ、と私の顏を見い/\いつもの荒つぽい調子に似合はず、ひそひそとして説き勸めて呉れるのであつた。そして、私の身體に目をつけながら、
『それに第一、遠方から來るといふのにそんな小ぎたない風態をして來る奴があるものか、君の細君も細君だ、僕は最初の日、羽織袴で出迎へて呉れた臺長の手前、ほんとに顏から火が出たよ、其處へもつて來ていきなり歸るなんか言ひ出すもんだからあんな騷ぎになつたのだよ。』
 と言つて苦笑した。
 私もいつか竿をあげて聽いてゐた。島に來てから見るともなく、其處の彼等の生活がいかに簡易で、靜かであるかを見てゐながら、多少それを羨む氣持が動いてゐたところなので、一層友人のこの勸告が身にしみた。同じく苦笑しながら、
『ウム、難有《ありがた》う[#「難有《ありがた》う」は底本では「雜有《ありがた》う」]、まア考へておかう。』
 と言つてその日は濟んだ。が、それからといふもの、例の空中の宿直室に在つても岩かげの事務室にゐても、釣絲を垂れながらも、私の心はひどくおちつきを失つてゐた。燈臺守になるならぬの考へが始終身體につき纒《まと》うてゐたのである。なつての後、いかに其處により善く生活してゆくか、本を買ふ、讀書をする、遠慮なく眼を瞑《と》ぢて考へ且つ作る、さうした樂しい空想もまた幾度となく心の中に來て宿つた。
 が、何としても今までのすべてと別れて其處に籠る事は、寂しかつた。よしそれを一時の囘避期準備期として考へても、とてもその寂しさに耐へ得られさうになかつた。その寂しさに耐ふる位ゐなら其處に何の生活の安定があらうとさへ思はれた。そして、或る日、見るともなく事務室の藥品棚の中にある古錆びた藥品を見詰めながら、私は獨りで笑ひ出した。そして自分に言つた、斯うしたものに預けておくには自分の身體にはまだ/\少々|膏《あぶら》が多過ぎる、と。
 さう思ひきめると、急に東京が戀しくなつた。其處にゐる妻や友人たちが戀しくなつた。そして豫定の日が來ると、私は曾つて私の來る時に友人がしたといふ樣に、朝早くから雙眼鏡を取つて岩の頭に立ちながら、向うの方に表はれて來るであらう船の姿を探した。
 いよ/\船に乘り移らうとする時、何となく私はこれきりでこの友人とももう逢ふ機會があるまいといふ樣な氣がした。そして、固くその手を握りながら、
『どうだ、臺長に願つてこれから一緒に下田まで行かんか、あそこで一杯飮んで別れようぢやないか。』
 と言つた。一年も續けて土を踏まずにゐると脚氣の樣な病氣に罹りがちなので、折々交替に二三週間づつ陸地の方へ行つて來るといふ話を思ひ出してさう言つた。
『フヽツ』
 と彼は笑つた。
『まアよさう、行くなら東京へ訊ねて行かうよ、君もまたやつて來て呉れ、今度はもう毆らんよ、ハヽヽヽ』
『ハヽヽ』
 自分も笑つた。送つて來て呉れた燈臺中の人も、船頭たちも、みな聲を合せて笑つた。



底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
   1958(昭和33)年11月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:柴武志
校正:浅原庸子
2001年4月16日公開
2005年11月9日修正
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