の机の冬の薔薇
晝は晝で夜は一層ばらが冷たい樣だ何しろおちつかぬ自分の心
と思ふまにばらがはら/\と散つた朝久しぶりに凭つた暗い机に
ぢいつとばらに見入る心ぢいつと自分に親しまうとする心
斯うしてぢいつと夜のばらを見てゐる時も心はばらの樣に靜かでない
ばらが水を吸ひやめたやうだガラスの小さな壜の冬の夜のばらが
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かと思ふと、或る海岸の荒磯に遊んでは、
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あはれ悲しいで衣服《いふく》をぬがばやと思ふ海は青き魚の如くうねり光れり
とかくして登りつきたる山のごとき巨岩《きよがん》のうへのわれに海青し
岩角よりのぞくかなしき海の隅にあはれ舟人ちさき帆をあぐ
嬉し嬉し海が曇るこれから漸くわたしのからだにもあぶらが出る
身體《からだ》は一枚の眼《め》となりぬ青くかがやける海ひらたき太陽
岩のあひだを這ひて歩くはだしで笑ひて浪とわれと
鵜が一羽不意にとびたちぬ岩かげの藍色の浪のふくらみより
下駄をぬいでおいたところへ來たこれからまた市街《まち》へ歸るのだ
この帆にも日光の明暗ありかなしや青き海のうへに
水平線が鋸の齒のごとく見ゆ太陽のしたなる浪のいたましさよ
少女よその蜜柑を摘むことなかれかなしき葉の蔭の
精力を浪費する勿れはぐくめよと涙して思ふ夜の浪に濡れし窓邊に
悲しき月出づるなりけり限りなく闇なれとねがふ海のうへの夜に
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 と云ふ風の歌を作つてゐるのであつた。
 ツイ、僅かばかり前に一生懸命して自分で作つておきながら、いま改めて見直すとなつて殆んど正體なく驚いたのである。どうしてあんなに驚いたのか今考へればわれながら可笑しいが、とにかくに驚いた。ほんの數日ではあつたが、郷里を離れてさうした島の特別にも靜かな場所に身を置いたゝめ、前と後とで急に深い距離が心の中に出來てゐたのかも知れぬ。
 驚愕はいつか恐怖に變つた。何だか恐しくて、とても平氣でそんな歌を清書してゆく勇氣がなくなつてしまつた。と云つて、心の底にはさうして作つてゐた當時の或る自信が矢張り何處にか根を張つてゐた。そしてその自信は書かせようとする、故のない恐怖は書かせまいとする、その縺《もつ》れが甚しく私の心を弱らせた。二日三日とノートと睨《にら》み合ひをしてゐるうちに終《つひ》に私は食事の量が減り始めた。氣をまぎらすためにM――君から借りて讀んだ萬葉集の、讀み馴れた歌から歌を一首二首と音讀しようとして聲が咽喉につかへて出ず、強ひて讀みあげようとするとそれは怪しい嗚咽《をえつ》の聲となつた。萬葉の歌を眞實形に出して手を合せて拜んだのはこの時だけであつた。
 終《つひ》に友人が心配しだした。そして、では私が代つて清書してあげませうと言ひながら、次から次と書きとつて行つた。それをば唯だ茫然と私は見てゐた。さうなつてからは日ならずして二三册のノートの歌が一綴の原稿紙の上にきれいに寫しとられてしまつた。
 折角久し振におちついてゐた私の心はその清書にかゝらうとした時から再びまた烈しい動搖焦燥の裡《うち》にあつた。そして友人の手によつて清書が出來上るや否や、それを行李に收め、あたふたと私はその靜かな島を辭した。
 丁度十年ほど前にあたる。いまこの島の數日を考へてゐると、其處の友人の家の庭にあつた柏の木の若葉、窓の下の飯蛸、または島から島にかけて啼き渡つてゐた杜鵑《ほととぎす》の聲など、なほありありと心の中に思ひ出されて來る。

      その二

 いま一度、私は瀬戸内海の島に渡つて行つたことがある、備前の宇野港から數里の沖合に在る直島といふのへ。
 夏の初、やゝもう時季は過ぎてゐたがそれでもまだ附近の内海では盛んに名物の鯛がとれてゐた。その鯛網見物にと、岡山の友人I――君から誘はれて二人して出懸けたのであつた。直島附近は最もよく鯛漁のあるところと云はれてゐるのださうだ。
 附近に並んでゐる幾つかの島と同じく、直島も小さな島であつた。名を忘れたが、島の主都に當る某村に郷社があり、其處の神官M――氏をI――君は知つてゐた。そして網の周旋を頼むためにこんもりと樹木の茂つた神社の下の古びた邸にM――氏を訪ねて行つた。
 M――氏は矮躯《わいく》赭顏《しやがん》、髮の半白な、元氣のいゝ老人であつた。そして私は同氏によつてその島が崇徳上皇配流の舊蹟で、附近の島のうちでも最も古くから開けてゐた事、現にM――家自身既に十何代とか此處に神官を續けて來てゐる事等を聞いた。内海の中に所狹く押し並んでゐる島々のうちにも、舊い島新しい島の區別のあることが私には興深く感ぜられた。
『では、參りませう。網は琴彈《ことひき》の濱といふ所で曳くのですが、途中を少し※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて上皇の故蹟を見ながら參りませう。』
『でも
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