、丁度干潟になつた其處に何やら蠢《うごめ》くものがある。よく見ると、飯蛸《いひだこ》だ。一つ、二つ、やがては五つも六つも眼に入つて來た。それを眺めながら、私は懶《ものう》く或る事を考へてゐた。父危篤の電報に呼び返さるゝ數日前に私は結婚してゐた。一軒の家でなく、僅か一室の間借をして暮してゐたので、私の郷里滯在が長引くらしいのを見ると、妻も東京を引きあげて郷里の信州に歸つてゐた。そして其處で我等の長男を産んでゐた。私が今度東京に出るとなると、早速彼等を呼び寄せなくてはならぬ。要るものは金である。その金の事を考へてゐるうちに見つけたのが飯蛸であつた。そして可愛ゆげに彼等の遊び戲れてゐるのに見入りながら、不圖《ふと》一つの方法を考へた。一年あまりの郷里滯在中は初めから終りまで私にとつては居づらい苦しい事ばかりであつた。どうかしてそれを紛らすために、いつか私は夢中になつて歌を作つてゐた。その歌が隨分になつてゐる筈だ。それを一つ取り纒《まと》めて一册の本にして多少の金を作りませう、と。
括《くく》つたまゝ別莊の玄關にころがしてあつた柳行李を解いて、私はその底から二三册のノートを取り出した。そしてM――君から原稿紙を貰つて、いそ/\と机に向つた。左の肱が直ぐ窓に掛けられる樣に、そして左からと正面からと光線の射し込む位置に重々しい唐木の机は置かれたのである。
が豫想はみじめに裏切られた。それ以前『死か藝術か』といふ歌集に收められた頃から私の歌は一種の變移期に入りつつあつたのであるが、一度國に歸つてさうした異常な四周の裡《うち》に置かるゝ樣になると、坂から落つる石の樣な加速度で新しい傾向に走つて行つた。中に詠み入れる内容も變つて來たが、第一自分自身の調子どころか二千年來歌の常道として通つて來た五七五七七の調子をも押し破つて歌ひ出したのであつた。何の氣なしに、原稿紙を擴げて、順々にたゞ寫しとらうとすると、その異樣な歌が、いつぱいノートに滿ちてゐたのである。實は、郷里を離れると同時に、時間こそは僅かであつたが、やれ/\と云つた氣持ですつかり其處のこと歌のことを忘れてしまつてゐたのであつた。そしていま全く別な要求からノートを開いて見て、其處に盛られた詩歌の異樣な姿にわれながら肝をつぶしたのである。
其處には斯うした種類の歌が書きつらねてあつた。
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納戸《なんど》
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