かかりもせぬ前から先刻の樣な騷ぎに出會つて、靜かな心も落ちついた氣分もあつたものではなかつたのである。半分は泣く樣な氣持でわけもなく歩いてゐると、後から馬車が來た。そして馬車屋が身近くやつて來て乘れと勸める。何處行きだと訊くと奈智の瀧のツイ下まで行くといふ。直ぐ幌を上げて乘り込むと驚いた。先刻の宿屋に休んでゐた三人連の一行が其處に乘り込んでゐたのだ。
 向うでは前から私だと知つてゐたらしく、お互ひにそれらしい顏を見合せて默り込んだ。平常《いつも》ならば私も挨拶の一つ位ゐはする所であるが、彼等の好奇に動く顏を見るとまた不愉快がこみ上げて來て目禮一つせず、默つたまま、隅の方に腰を下した。四方とも黒い油紙で包み上げた馬車の中は不氣味な位ゐ暗かつた。そして泥田の樣な道を辿つてゐるので、その動搖は想像のほかであつた。四五丁も行つたと思ふころ、馬車屋が前面の御者臺の小さなガラス窓から振返つて私あてに聲をかけた。この降るなかをお詣りかと訊くのだ。奈智と云へば私は唯だ瀧としか聯想しなかつたが、其處には熊野|夫須美《ふすみ》神社といふ官幣か國幣の大きな神社があり、西國三十三ヶ所第一の札所である青岸渡寺と
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